だが、これをwoke capitalismの圧倒的勝利と見なしてよいのだろうか。これに対して著者はいくつかの留保をつける。
1つはアマゾンにおける租税回避と同じように、ナイキは「スウェットショップ問題」を抱えているからである。
sweat shopとは「搾取工場」、低賃金労働者が違法な労働条件で酷使される工場を意味する。90年代にナイキの製造工場の非人道的な低賃金と過酷な労働を扱ったドキュメンタリー映画が公開された時、それは世界的なスキャンダルを引き起こした。ナイキは労働条件の改善を約束したが、いまだ十分には実現していない。
もう1つの留保は、キャパニックがナイキのスポークスパーソンに選ばれても「アメリカの黒人の不安定な生活は少しも変わらないという事実が覆い隠されている」ことである(220頁)。
ただし、この指摘は「あら探し」に類するものと言ってよいと思う。一人のアクティヴィストはナイキからいくばくかの経済的利益を得たが、アフリカ系アメリカ人全員は同じような恩恵に浴していない、だからこんな運動に意味はないというのは言いすぎである。進歩というのは斉一的に実現するものではない。少しずつランダムになされるものだ。
そして、もう1つナイキの勝利に対しての留保がある。これがこの本の核心である。それはナイキがキャパニックのアクティヴィズムと歩調を合わせたのは、それによって得られる商業的利益をめざしたからだというものである。ナイキは商業的利益やブランドイメージの改善を得られる見込みがあったので、キャパニックの政治的主張を利用した。「企業が自分たちの利益のために、他者が作り出した流行に乗っているだけではないかと問うべき理由は十分にある」(221頁)。
ここで話がややこしくなってくる。woke capitalismは「意識高い」に軸足を置いているのか、「資本主義」に軸足を置いているのか、どちらなのか。
NFLは2020年のシーズン開幕戦で国歌斉唱の前にLift every voice and singを演奏することを決めた。19世紀から歌い継がれてきた奴隷制の記憶と自由を求める闘いを歌った「黒人の国歌」である。この歌を開幕戦で流すことについて、NFLは「人種差別と黒人への組織的抑圧を非難し、かつてNFLの選手たちの声に耳を傾けなかったことは過ちであると認め」た(226頁)。2017年のキャパニックの事実上の追放からわずか3年間でNFLは180度方向転換したことになる。
もちろんこれはジョージ・フロイド暴行殺人事件(2020年5月)のあと全世界に広がったBlack Lives Matter運動に直接反応したものである。世論の圧倒的な流れに直面してNFLは豹変したのである。
「NFLはビジネスであり、ビジネスである以上、顧客を無視するわけにはいかない。(…)世界がブラック・ライヴズ・マターを支持するならば、NFLもそうすることが商業的には当然である」(230頁)。
このNFLの変節を著者はきびしく咎める。NFLがBLM運動への支持を表明したのは、ただそうしないと顧客が離れると思ったからである。NFLだけではない。「あらゆる種類の企業が素早くこの流れに乗り、公式に声明を出して支持を表明した。現に、反人種主義への支持が主流となった政治的環境において、世界中の企業が政治的に覚醒したふりをした」(231頁)。
著者はこれを「企業が自らのブランドを政治的大義と一致するように行動する『ブランド・アクティヴィズム』」とみなす。それは「国民感情へのあからさまな迎合」であり、「中身を伴わない『売名行為』」にすぎない。