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2巻

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   プロローグ


 ――どうすれば、どうすればローザの結婚相手として認めてもらえますか?
 エイドリアンがそう叫ぶと、暗い木立の向こうから無情の声が告げた。
 ――……それくらい自分で考えろ、この阿呆が。
 ドルシア子爵の声だ。エイドリアンは思わず闇に向かって手を伸ばしていた。

「待って、待って下さ――」

 そこでふっと目を覚ますと、ベッドの中だ。伸ばされた自分の手は虚空に浮いている。耳に届くのはピチュチュンという穏やかな鳥達の声。
 エイドリアンはぼんやりと周囲を見回し、朝日の昇った窓辺に視線を向け、ああ、夢だったのだと気がついた。
 今自分がいる場所はダスティーノ公爵邸だ。バークレア伯爵邸は警備がずさんとの指摘を受け、こうして妻のローザ共々ダスティーノ公爵邸に厄介になっている。それもこれも、ローザが冤罪えんざいで処刑されたオーギュスト殿下の子ではないかという疑惑からなのだが……
 当面、そのことは問題ではない。
 一番の問題は、バークレア伯爵家が復興したら、ローザは自分と離縁し、ドルシア子爵邸へ帰ってしまうということだ。そう、愛しいローザがいなくなってしまうのだ。自分の前から……
 エイドリアンはベッドの上でそんな事実を思い出し、はふうとため息をついた。
 結婚した当初は、こんな風になるなんて微塵も思ってなかったんだよなぁ……
 過去を思い返し、エイドリアンは落ち込んだ。
 婚約者だったセシルと無理矢理別れさせられて、その仕返しとばかりにエイドリアンは結婚したローザに冷たく当たった。なのに、ローザはそうした自分の態度を歯牙にもかけず、伯爵家の困窮こんきゅうした生活を改善してくれたのだ。
 ほこりだらけだったやしきを綺麗にし、自給自足のための芋畑を作り、おいの世話をし、使用人達の手が回らない部分の仕事までこなしてくれた。お陰でバークレア伯爵家の使用人一同、今では彼女の信奉者だ。
 バークレア伯爵領のワインの拡販がうまくいったのも彼女のお陰……
 社交界でささやかれていたローザの噂は最悪なものだったが、実際の彼女は教養のある優しい貴婦人だった。こうして今まで一緒に過ごした自分が一番よく分かっている。
 彼女の明るさと優しさに惹かれ、いつの間にか彼女に恋をしていた。彼女の顔を見ないと落ち着かない、そんな日々がどれくらい続いただろう。恋を自覚してからは彼女に相応しい夫になれるよう努力したが、ローザの父親であるドルシア子爵に告げられた言葉は、「この私が認めた男以外にくれてやるつもりはない」である。バークレア伯爵家復興のために、一時的にローザを貸してくれただけだからだ。
 エイドリアンはまたため息だ。
 どうしても意識は、先日のドルシア子爵との面会に持っていかれてしまう。人気ひとけのない夜の公園で心底肝を冷やしたことを思い出しては、会うんじゃなかったと後悔が浮かびそうになる。しかし、エイドリアンはいつもそこでぶるぶると首を横に振る。
 いやいや、ドルシア子爵の目的がバークレア伯爵家の乗っ取りではなく、復興だったと分かっただけでも良かったじゃないか! そ、そうだよ、彼は味方なんだ、恩人なんだ。少々怖くても、得体が知れなくても、裏社会のボスでヒヤヒヤしっぱなしでも、この先自分が殺される心配をする必要はないのだから、がんばった甲斐はあったじゃないか! 後は、ドルシア子爵に認めてもらえるような男になればいいだけ。いいだけなんだが……
 それが最難関だと気がつき、やはりエイドリアンから深い深いため息が漏れる。

「目が覚めましたか、旦那様」

 エイドリアンの耳に届いたのは、ローザの軽やかな声である。
 ふわりと彼女の黄金色の髪が揺れ、ちゅっと朝のキスをしてくれた。自分を見つめるあおい瞳はやはり美しい。つい、にへらと顔が緩んでしまう。不吉な夢……いや、あれは現実だが、それを払拭して余りある。

「なら、着替えて下さいまし。朝食ができているそうですわ」

 見ると、ローザはもう既に着替え終えている。随分ずいぶん前に起きていたらしい。起こしてくれれば良かったのに、エイドリアンがそう言うと、ローザに笑われた。

「もう少しと、ベッドに潜り込んだのは旦那様ですわね?」

 ローザの指摘で、エイドリアンは上掛けの中に潜り込んだことを思い出す。
 あ……そういえば寝不足で、つい……
 ローザが寝室を後にすると、すかさず侍女のテレサが朝の身支度を手伝ってくれた。じっとそばかすだらけの人懐っこそうなテレサの顔を見つめてしまう。甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる姿は、今までのものと変わらない。エイドリアンは恐る恐る口を開いた。

「……テレサ、君は、その、本当に……」

 仮面卿かめんきょうの密偵なのか? そう尋ねようとして、バチッとテレサと目が合った。

「なんでございましょう? 旦那様」

 テレサがにっこりと笑う。
 彼女が浮かべた微笑みはいつも通りのはずなのに、その笑顔が薄ら寒い。ぞぞぞと悪寒が走ったエイドリアンは、いや、なんでもないと誤魔化した。この件には触れない方が良さそうである。


   ◇◇◇


「旦那様、ご気分はどうですの?」

 遅れて朝食の場に姿を現したエイドリアンにローザが声をかけると、彼は考え事でもしていたのか驚いたようにびくりと体を揺らした。笑う顔がどことなくぎこちない。

「あ、そ、そうだな。悪くない」

 悪くない、ですか。今一つ顔色が優れませんわね。ああ、もしかしたら、父と対話した影響がまだ残っているのでしょうか? あの父との対面は神経が削られますものね。その上……
 ローザは、傍で給仕するテレサをちらりと見た。
 テレサは父の間者だったわけですし……

「何かご用でしょうか? 奥様?」

 ローザの視線に気がついたテレサがにっこり笑う。相変わらず人懐っこい笑顔だ。

「いえ、特には……ああ、ウラド産の紅茶をれてもらえるかしら?」
「かしこまりました、奥様。いつもの、ですね?」

 既にテレサはローザの好みを熟知している。本当にいい侍女である。監視役を兼ねていると分かってはいるが、これ以上ないほどのボディガードでもあった。

「テレサ」
「はい、なんでしょう、奥様」

 父のどこを気に入ったのか。そんな野暮やぼったい質問をローザは呑み込んだ。父に忠誠を誓っている者が父を悪く言うわけがない。苦笑と共にローザは思考を切り替える。

「いつも美味しいお茶をどうもありがとう」

 ローザがそう礼を口にすると、テレサは照れ臭そうに笑った。

「どういたしまして、奥様。そう言っていただけると、とても嬉しゅうございます」

 テレサのそれは、やっぱり人懐っこい笑顔である。
 反対に目を向けると、黒髪に黒い瞳をした美貌の夫が席に着き、食事を始めようとしている。誠実そうな顔立ちは温かく柔らかい。
 ローザはくすりと笑った。
 しかめっ面だったあの頃とは雲泥うんでいの差ですわね。まぁ、父に脅されてわたくしと結婚したわけですから、当時のあの反応は致し方なかったのでしょうけれど。
 ローザは切り分けられた果物を一口食べる。甘く爽やかな香りだ。

「旦那様」
「ん?」
「先日は父との対面、お疲れ様でございました」
「あ、ああ……」

 やっぱり顔が引きつりますわね。トラウマになっていないと良いのですけれど……

「旦那様。バークレア伯爵家を復興させましょう。父に認められるように」
「ドルシア子爵に認められるように……」

 ぽつりとエイドリアンが繰り返す。

「ええ、そうですわ。わたくしが全力でお手伝いいたします。がんばって下さいませ」

 そして、情けなくて可愛らしい旦那様、どうぞわたくしの心を射止めて下さいまし。
 ローザは心の中でそう付け加え、にっこりと笑う。すると、ようやく、ようやくエイドリアンの青白かった顔に赤みが差した。

「ありがとう」

 それは、エイドリアンの心からの笑顔であった。



   第三章 仮面卿の唯一無二


    第一話 初恋のお相手は


「ローザ、これは?」
「王家の家系図ですわ」

 エイドリアンの質問に、ペンを持つ手を止めずにローザが答えた。
 積み上げられている書物には、二人の母国語であるリンドルン語でないものも多く交ざっている。ローザは語学が堪能だ。彼女の教養は本当に驚くほど高いと、エイドリアンは思う。

「管理費の見直し、ワインの質の向上、領地改革等々、課題は山積みですが……この先、高位貴族との結びつきもまだまだ強めなければなりません。ですので、旦那様の社交術の手助けになればと、今一度、こうして主要人物を書き出しているところですの」

 ローザの言葉を受けて、エイドリアンはそれに目を落とした。
 お目当ては、ローザの父親だと言われているオーギュストの項目である。前国王の子は、第一王子のオーギュスト、第二王子のハインリヒ、そして第三王子のアベルとなっているが、アベル殿下は病弱で、滅多に人前に出てこないと聞く。療養生活が長いらしい。
 オーギュストの隣はやはり、妻であった王太子妃ブリュンヒルデ・ラトゥーア・リンドルンである。消息不明なので没年は記されていない。
 エイドリアンはローザの横顔をじっと見つめた。波打つ髪は輝く黄金色、あおい瞳は神秘的で美しい。誰もが見惚みとれる絶世の美女である。エクトル宰相さいしょう閣下の言うことが本当なら、ローザはブリュンヒルデ皇女殿下とうり二つらしいが……

「……やっぱり、君は彼女の子なのかな?」

 エイドリアンはぽつりとそんなことを口にした。

「彼女?」

 手元から顔を上げずにローザが繰り返す。

「ブリュンヒルデ・ラトゥーア・リンドルンの子なのかなって……」
「さあ? 真実を知っているのは父のみですわね」
「なら、聞いてみれば……」

 エイドリアンの提案に、ローザはふっと顔を上げ、眉根を寄せた。

「父は過去を聞かれることをことのほか嫌がりますのよ、旦那様。ですから、わたくし自身、母のことは何も知りませんの」
「でも、このままでいいとは思えない。そう思わないか?」

 ローザがため息を漏らした。観念したように。

「……分かりました。一度家に帰って、父と話し合ってみますわ。それでよろしいかしら?」
「ここへは帰ってくるよな?」

 つい、不安になってエイドリアンが問い返すが、もちろんですわとローザは微笑んでくれた。エイドリアンは、ほっと胸をで下ろす。

「なぁ、君の初恋って?」

 安心するとふと別の疑問が湧いて、エイドリアンは再び問いかけた。

「どうなさったんですの? いきなり」
「いや、その……好みの確認だ。最初から宰相さいしょう閣下のような男が好きだったのかなと……」
「そうですわね。素敵だと思った方は何人かいましたけれど……」
「どんな男性だった?」
「頭が良くて優しい? 恰幅かっぷくの良い男性だったと思います」

 やっぱり宰相さいしょう閣下みたいな男か。

「旦那様の初恋は?」

 ローザに聞き返されて、エイドリアンは狼狽うろたえた。まさか聞き返されるとは思わなかったのだ。

「えー……その、笑顔の素敵な子か?」

 しどろもどろである。

「あら? セシル嬢のような?」
「今は君一筋だぞ!」

 エイドリアンは慌ててそう口にする。ここで嫌われたらかなわない。

「ふふ、分かっておりますわ。単なる好みの確認ですわよ、旦那様」

 ローザに笑われ、エイドリアンの視線が彷徨さまよった。

「あ、ああ、そうだな。セシルは初恋の女性に似ているかも」
「わたくし、セシル嬢のように可愛らしくはありませんけれど」
「君は十分可愛い」

 エイドリアンはすかさずそう言った。すっぴんの顔は誰にも見せたくないくらいだ。

「うふふ、ありがとうございます」
「本当だぞ?」
「信じておりますわ、旦那様」

 ふわりとローザが笑う。
 でも、確かにローザは、今まで好きになった女性とは、タイプが違う気がするんだよな……
 エイドリアンはそう思い、じっとローザの美しい横顔に見入ってしまう。
 女性を好きになるきっかけは大抵、いじらしい可愛らしいと思った時、だよなぁ。初恋の子もセシルの時もそんな感じだった。父親を幼い時に亡くし、貴族社会には縁遠かったせいか、貴族特有の取り澄ました表情が苦手で、どうしてもそういった女性を避けていた。だからだろう、貴族らしくない素朴で素直な子を選んでいたような気がする。
 なのに、ローザはばりばりの貴族だ。微笑みも優雅で、何もかもが洗練されている。どちらかと言うと自分の苦手なタイプじゃなかったか?
 それがいつの間にやら、こうして彼女の顔を見ないと落ち着かない。他の貴族と同じか、それ以上に優雅で洗練された微笑みなのに、彼女の所作は温かい。そう感じる。傍にいたいと、そう思ってしまう。
 ――この私が認めた男以外にくれてやるつもりはない。特にお前のような能なしにはな!
 耳によみがえったドルシア子爵の言葉が、エイドリアンの胸に突き刺さる。
 そうだ、自分は貴族社会が苦手で、そこに溶け込もうなんてしたことがない。社交術なんか覚えなくてもなんとかなる、漠然とそんな風に思っていた。実際は没落寸前だったわけで、全然大丈夫ではなかったのだけれど……
 自分の認識と現実との差に、今では冷や汗が出る思いだ。本っ当に駄目駄目だったのだと分かる。今からでもいい、努力しよう。ローザに必要とされたい、隣に立てるようになりたい、そして何より彼女の微笑みを見ていたいと、そう思うから。



    第二話 真実を求めて


 馬車を降り、目の前にしたドルシア子爵邸に、ローザは不思議な気持ちを覚えた。このやしきは特別豪奢ごうしゃでも美しくもない、貴族のやしきとしては標準と言えるだろう。
 もう、ここへ帰ってくることはないと思っておりましたわ。
 バークレア伯爵のもとへとつげと命令されてここを出て、馬車の中から見たあの景色が最後だと、自分は信じて疑わなかった。なのに……
 ――このままでいいとは思えない。そう思わないか?
 ええ、思いますわよ、旦那様。
 エイドリアンとのやりとりを思い出し、ローザは嘆息する。
 旦那様との婚姻がバークレア伯爵家の復興を目的としていたのなら、彼が殺されるということもありませんもの。計画の練り直しが必要ですわね。逃亡も命がけですのよ、旦那様。
 ――バークレア伯爵にとつぐ?
 ローザは父親にそう告げられた日のことを思い出す。
 ――そうだ、不満か?
 父の表情はいつも通りで変わらない。
 ――いえ、わたくしはお父様の意向に従いますわ。彼を気に入ったんですの?
 バークレア伯爵とは夜会で何度か顔を合わせたことがある。容姿端麗なので女性にモテてはいたけれど……立ち回りが下手すぎて、全くもって貴族らしくない男だった。あれを気に入る……父のお眼鏡にかなう要素がどこにあったのだろう?
 ――はっ、あれを気に入る?
 ローザが不思議がる中、父親のドルシア子爵が吐き捨てるように言った。場所はいつものように父の書斎である。重要な話をする時は大抵ここだ。
 ――残念だが、視界に入れるだけでも不愉快だ! あの馬鹿は、ことごとく、こちらの、根回しを、台無しにする!
 ドルシア子爵の一言一言区切るこの言い方は、相当腹を立てている証拠だ。父親は腹を立てると、こういう叱責の仕方をする。
 ――何度喉をかっ切ってやりたいと思ったか……脳天気で無能で、本当に救いようがない。家が潰れる寸前というこの現状を! 一体、どうやったら、理解するんだ! 何を言ってもやってもぬかに釘! 魚の餌にした方がよほど楽だ!
 お父様は本気で怒っていましたわね。
 ――では、どうして……
 ――爵位は利用できる。なので家を建て直せ。
 父はそっけなくそう答えて、話を終えた。
 旦那様を魚の餌にしたいなんて言うものですから、てっきりおいえ乗っ取りを企んだのだとばかり……。復興目的ならそう言って下されば……いえ、無理ですわね。たとえそう説明されたとしても、わたくしは何か裏があると勘繰かんぐったでしょうから。本当に、一体どういう風の吹き回しでしょう?

「お帰りなさいませ、お嬢様」

 ずらりと並んで出迎えた侍女達の中から、侍女長のアグネスが進み出た。長身で細身、鋭利な顔立ちに引き締まった口元は、彼女の性格をそのまま現しているかのよう。
 全くもって変わっていないとローザは思う。ローザはアグネスの笑った顔を見たことがない。非常に真面目で仕事のできる人だけれど、人間としての感情が欠落しているのではと思う時がある。
 ある意味、お父様と似ているのかも……
 父は彼女とは違ってきちんと笑うけれど、あれも本当に笑っているわけではないものね。社交用の作り笑いだから、見ているこっちは薄ら寒いわ。

「父は?」
「あちらに……」

 見れば確かにドルシア子爵がいて、ついてこいと言うように身をひるがえした。背を向けていて顔が見えずとも、父の姿は人目を引く。まるで舞台の上の人物を目にしているかのよう。かもし出す重厚な雰囲気のせいで、一つ一つの動作が妙に様になってしまう。
 ――何故そんな野暮やぼったい仮面を着けているんですの? ない方がよろしいですわ。
 これは、オークション会場でマデリアナ・ドリスデン伯爵令嬢が言った台詞せりふだ。
 マデリアナは宰相さいしょうであるエクトルのめいであり、ローザの良いお客様なので懇意こんいにしているが、少々無謀なところがあって危なっかしい。事あるごとに仮面卿である父に接触しようとするのだ。まるで父に恋をしているようにも見えるほど……
 ローザは前を歩く父親の背をじっと見据みすえた。黒く重厚なその背は、いつだってのしかかるような圧力があって、頼もしいと言うよりはやはり怖い……

「お父様」
「なんだ?」
「仮面は取りませんの?」
「……お前の前では取る」
「普段からない方がよろしいですのに」

 本当にそう思ったわけではない。けれど、父がオーギュスト・ルルーシュ・リンドルンなのではないかという疑惑から、ローザはつい突っ込んでしまった。

「……いずれ外す時が来る」

 父親のそんな答えがローザには意外だった。
 怒られるかと思いましたのに……
 ローザはひっそり思う。
 父の逆鱗げきりんはどこにあるのか本当によく分からない。どこで激高するのかも……
 ドルシア子爵の書斎に入ると、分厚い蔵書で埋もれた部屋には、温かいお茶が用意してあった。お茶もお菓子も全てローザ好みのものだ。父親の指示だと今では分かる。昔はこういった一つ一つが彼の配慮だとはつゆほども思っておらず、料理人に礼を言って、旦那様の指示ですよと返された時は、本当にびっくりしたものだ。
 父はこうしてわたくしが好むものをきちんと覚えている。こういうところを見ると、愛されているのではと、思ってしまいたくもなるけれど……
 ちらりとドルシア子爵の横顔に目を走らせ、恐ろしさにローザの体にふっと震えが走る。
 父の眼差しが恐ろしい。冷たくくらい水底のようなあの眼差しが……
 赤い薔薇は血の香り、そう連想してしまうほど、ドルシア子爵には常に死の臭いがつきまとう。剣の稽古けいこの時など何度殺されると思ったか分からない。きちんと手加減をしてくれていたのだから、気のせいだとは思うけれど、どうしてもこうして距離を取る癖が抜けない。
 温かい親子の交流など夢のまた夢ですわね……
 ローザはこぼれ出そうになるため息を呑み込んだ。
 書斎に入ると、ドルシア子爵がいつものように仮面を外す。現れたのは目を見張るほどの美しい面立ちである。鋭利な美貌は、やはり息を呑むほど迫力があった。
 水底のようにくらい緑の瞳は冷たく鋭く、整った顔立ちは年輪を重ねて重々しい。微笑めばどんな女性をもとりこにしそうなほど魅力的なのに、やはり悪寒が走る。父はどこかちぐはぐだ。ローザにはそう思えてならない。激しく燃える炎の中に溶けない氷があるかのよう。

「……伯爵家にとついだ理由を知ったか?」

 ローザが話す前に、ドルシア子爵からそう切り出される。
 お父様はいつもこうですわね。常に先を読んで、こちらが言いたいことを先回りしてしまう。人によっては不気味に感じるでしょうに。

「ええ」
「ここへ帰ってきたいか?」
「いいえ。バークレア伯爵家を再興するまではこのままでよろしいかと」
「そうか」

 ドルシア子爵が手にしているのはウオッカだ。それを水で薄めずそのまま口にする。ローザが不思議に思うのは、父親がワインを口にしないこと……。ワインにあれほど精通しているのに、父がワインを口にすることはない。食事の時もアルコール濃度の高い酒か水。ここまで徹底していると、逆に避けているようにも見える。どうしてでしょう?

「……ワインは呑みませんの?」
「これでいい」

 ドルシア子爵はそっけなく答え、手にした酒をあおった。
 父は酒にも強くて、酔ったところを見たことがない。酒を呑む姿もどこか不機嫌そうで、美味しくないのかと問えば、どれも同じだと答えられてしまう。
 どれも同じ……。ワイン通の言葉とは思えませんわね。

「エイドリアンを殺すつもりはありませんのね?」
「そうだ。まぁ、本当に乗っ取るつもりなら、結婚などまどろっこしいことをせず、家督をおいに譲らせて両方始末し、おいの替え玉を用意すればいい。他に親類縁者はいないから、ふん、簡単だな」

 そういうことを平気で口にするから、あくどいと思われるんですのよ、お父様。

「――お父様はオーギュスト・ルルーシュ・リンドルンですの?」

 どんな反応が返ってくるか分からず、ローザは身を固くする。


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