上 下
19 / 90
2巻

2-2

しおりを挟む
「エクトルから聞いたか?」

 ええ、そうですけれど……

宰相さいしょう様のファーストネームをそうやって口にするのも不思議です」
「あれは最も親しい私の側近だった」
「乳兄弟だとお聞きしましたけれど」
「そうだ」

 ドルシア子爵が肯定し、ローザはため息をついた。
 はぁ、頭が混乱しますわ。やっぱりお父様は第一王子なんですのね。

「お父様はどうしたいんですの? この先、国王になるおつもりですか?」
「お前を女王にする」

 はい?

「え、あの……」

 驚いたローザの腰が、ソファから浮く。

「聞いた通りだ。お前をこの国の女王にえる。それが目的だ」
「ま、待って下さいまし! お父様が国王になるのが先では?」
「私は国王に相応しくない。いびつだ。ゆがんでいる」

 普通ではないという自覚はありますのね。でも……

「その前に一つはっきりさせておきたいのですが、前国王を殺したのは一体誰なんですの? 不明ですか?」
「ハインリヒだ」

 ハインリヒ……ハインリヒ陛下?
 ローザが目をくと、ドルシア子爵が唇をゆがめて笑った。まるで嘲笑するかのように。

「驚くようなことか? 私が放逐ほうちくされて一番利を得るのはあいつだろうに」
「でも、兄弟、ですわよね?」

 父が第一王子のオーギュストなら、第二王子のハインリヒは一つ違いの弟である。

「……腹違いのな」

 ドルシア子爵が吐き捨てるようにそう言った。

「証拠は?」
「私が現場を目撃した」

 ローザは心底驚いた。

「え? それでどうしてお父様が犯人にされたんですの?」
「そうだな。周囲の者達が『滅びの魔女の秘薬』で操られていた、とだけ」
「滅びの魔女の秘薬……」

 そんなものが本当に?

「既に廃棄処分済みだ。見せることはできない」

 ローザの困惑を読み取ったか、ドルシア子爵がそう説明した。

「秘薬の存在は信じなくても構わない。あれは実際に見た者でなければ分からないだろうから」

 ローザは自分の父親をじっと見つめた。
 ええ、そうかもしれませんわね。でも、わたくしはそういったものを信じる方ですのよ、お父様。そして、お父様はこういった嘘はつきません。無神論者で、超常的な力には真っ先に疑いを向けますもの。きっと秘薬の存在も真実なのでしょう。

「先程の女王の件ですが、わたくしは望んでいないと言っても、無理ですわよね?」
「国民がそれを望む。さて、我が民はあの豚の圧政にいつまで耐えられるかな?」

 ドルシア子爵の言葉にローザは驚いた。

「……そんなに酷いんですの?」
「私に味方をする貴族と組織の者達が食い止めているから、今のところ表面化はしていない。だが、ここで私が手を引けば、そう、あっという間にこの国は食いつぶされるだろうな。王室の内情など酷いものだ。贅沢三昧ぜいたくざんまいのやりたい放題。あの豚は王室を私物化している。不満分子を誘導すれば簡単に暴動を起こせるぞ?」

 不穏な空気を感じ、ローザが問う。

「内乱を?」
「いや、やるつもりはない」

 その返答にローザはほっと胸をで下ろした。

「私が正統な跡継ぎだ。あの豚はまがい物。あんなもののために民の血を流せるか。冤罪えんざいを晴らし、王室へ返り咲く。あの豚は追い詰めて追い詰めて断頭台へ送ってやるとも!」

 緑の瞳に憎しみの色が燃え上がる。ドルシア子爵が手にしていたグラスがバキリと割れた。
 ああ、それで……
 ローザは納得してしまった。
 ハインリヒ陛下の話をする時、お父様はいつだってこんな風に憤怒の念をたぎらせていた。自分の父親を殺し、冤罪えんざいを仕立て上げた張本人だったからなんですのね。全てを奪った元凶が陛下だった。でも……

「わたくしが女王だなんて……」

 ローザが不安をにじませれば、ドルシア子爵がその背を押した。

「繋ぎくらいにはなってやる」
「繋ぎ?」
「王冠を取り戻した後、しばらくは私が国王として立ってやるとも。お前が女王として立つまでの繋ぎだ」

 ローザは冷徹な父親の顔をじっと見つめ返した。
 いつものように、揺らがない岩山のようなたたずまいだ。
 つまり、どうあがこうと、お父様はわたくしを女王として立てる気でいる、ということですわね……
 ローザはうつむいた。
 なら、覚悟を決めるしかありませんわ。父はこうと決めたら何がなんでも押し通しますもの。でも、わたくしが女王……
 ローザは組み合わせた自分の手をじっと見つめた。かすかに震える指先が目に映る。国を背負って立つ重責は並大抵ではない。国を繁栄させるも衰退させるも、自分の手腕次第だ。そして、自分の判断一つで多くの人命が失われる。その逆もあるのだけれど……
 淑女教育という枠を遙かに超えた勉学は、この時のためだったのだと、ローザは今ようやく理解した。父の厳しさに押し切られて、父の要求を全て受け入れ、吸収したけれど……
 くらりと目眩めまいがしそうだった。
 知識として学ぶことと、実践するのとでは、全く違う。理想は所詮、机上の空論だ。理想通りすんなり行くことなどまずない。人心掌握しょうあくもまたしかり……。女王として認められなければ、多くの者が自分の敵に回るだろう。それくらい簡単に予測できる。
 けれど、父はそうした重責を全て理解した上で、女王として立てと言う。私の子なら、これくらいできて当然という顔で。そう、いつものように……
 できて当然……
 ふっとローザの口角が上がる。
 何故だろう、震えていた心に、決意のような火がポッとともった。
 やってみせましょう、と……
 不安に縮み上がっていた心に、ふつふつと湧き上がってきたのは闘志だ。どうしてか自分は、無理難題をぶつけられればぶつけられるほど、こんな風に奮起してしまう。負けるものかと張り切ってしまう。さて、こうした負けん気の強さは一体誰に似たものか……

「……本気ですのね?」

 ローザは問いかける。
 ドルシア子爵に挑むような眼差しを向けても、彼の表情は変わらない。当然と言いたげだ。自分の子ならこれくらいできて当然、これが父の口癖である。

「お前が生を受けた時からこれは決まっていたことだ。お前はオーギュスト・ルルーシュ・リンドルンの第一子。リンドルン王国の正統な跡継ぎだ」

 ローザはふと思いついた疑問を口にした。

「もしかして、わたくしのお母様は、子爵令嬢のミランダ・ドルシアではなく、ヴィスタニア帝国の第一皇女ブリュンヒルデ・ラトゥーア・リンドルンですの?」
「そうだ」
「お父様はお母様を愛してらっしゃいました?」
「この上なく」

 でしたら……
 冷徹な父親の顔をローザは今一度見返した。
 それは見慣れた顔だ。父はいつだってこんな風に冷たい。愛していると口にすることもなく、抱きしめることもない。温かい親子の交流など夢のまた夢。愛されているはずがない、一体何度その事実を噛みしめてきただろう。なのに、こうして愚かしくもひと欠片かけらの情愛を求めてしまう。

「その、わたくしのことは……」

 愛していますか?
 わずかな期待を胸に、ローザは身を乗り出した。
 愛していると、たった一言……お父様……
 ローザがすがるような眼差しを向けると、ドルシア子爵は何かを言いかけ、口を閉じる。それを目にしたローザは落胆した。過去何度も目にしている光景だったからだ。愛していると言ってほしくて自分をどう思っているのか問うても、いつだって父はこうして口を閉じてしまう。

「お前は唯一無二の宝だ、ローザ」

 ドルシア子爵がそう口にする。ローザはきゅっと唇を噛みしめた。
 欲しいのはその言葉ではないのに……。わたくしはものではありませんわよ、お父様。人としての温もりを求めてはいけませんの?
 課せられた勉学は淑女教育の枠を遙かに超えて厳しく、剣の稽古けいこもこれ以上ないほど過酷だった。なのに父の態度は「私の子ならこれくらいできて当然」が常で、父の存在はまるで冷たい氷壁のよう。唯一の触れ合いは、わたくしの髪に触れるあの手だけ。けれど、温もりを感じるはずのその手すら冷たく感じてしまう。
 赤い薔薇……
 父を赤い薔薇にたとえたのは一体誰だったろう?
 ふっとローザはそんなことを思い出す。
 オーギュは美しい、そう言って笑う女の影……。不自然なほど甲高い声。それに連動して思い出すのは、血まみれの父の姿。今よりずっと若々しくて、どこか狂気じみた笑みを浮かべている。お父様がわたくしに向かって嬉しそうに両手を広げて、それから……、それから?
 ――唯一無二の光……私の宝……
 これはお父様の声? 記憶はどれも断片的で、意味をなさない。この記憶は一体いつのものなのか……。事あるごとにそんな光景が脳裏をかすめて、恐ろしさに身がすくむ。だからだろう、美しいはずの花ですら、父と合わさると血を連想してしまう。
 赤い薔薇は血の香り……

「……お父様に愛されているとはとても思えません」

 ローザはそう告げた。

「私は……」

 やはり、ドルシア子爵は言葉に詰まる。ローザの目にじわりと涙が浮かんだ。

「お父様はわたくしが嫌いですわよね?」

 過酷な修練、冷たい父の眼差しが脳裏をよぎる。よくやった……そんな一言すらなくて。

「違う」
「でも!」

 ローザはいつになく食い下がった。睨みつけるようにドルシア子爵の顔を見てしまう。
 そこにあるのは、怖気おぞけが走るほど美しい面差しだ。そして、記憶にあるのは冷たい父の横顔である。そう、幼い時はこうして視線を合わせることすらまれだった。意識的に避けられているのではと思うほど。どうしてどうしてと心が叫んでしまい、気がつけばローザは声を荒らげていた。

「どうして! どうして愛していると言って下さらないんですの!」
「言えないんだ!」

 激しい焦燥を帯びたドルシア子爵の声に、ローザは面食らう。
 湧き上がった思いは戸惑いだ。そろりと顔を向けると、涙こそないけれど父が泣いているようにも見えて、ローザは思わず呆然となった。
 お父様?

「言えないんだ。口にできない、どうしても……。すまない、ローザ……」

 ドルシア子爵がそう口にし、ローザは目を見張った。
 お父様が謝罪? ありえませんわ。でも今、確かにすまない、と……

「お父様、あの……」

 なんて言えば……。そもそもこんな父の姿を初めて目にしましたわ。いつだって自信たっぷりで、決して揺るがない岩山のようでしたのに……。で、でしたら、そうですわ。わたくしの方から愛していると言えば……いえ、それは思いっきり嘘ですわね。
 ローザははたと冷静になる。
 すぐさま嘘とバレますわ、これ。むしろ大嫌いと言った方がしっくりきますもの。えー……せめて好き? いえ、鳥肌が……。駄目です、無理ですわ。どうしましょう……

「お父様、その……嫌い嫌いも好きのうち、ですのよ!」

 精一杯、精一杯がんばりましたわ!
 ローザは心の中でぐっと拳を握る。自分で自分を褒めてあげたい気分であった。

「……それを言うなら嫌よ嫌よも好きのうち、だぞ?」

 ドルシア子爵の突っ込みに、ローザは心の中で目をいた。
 突っ込まなくてよろしいですわ! わざとですのよ!

「気を遣ったというわけか?」

 あ、いつものお父様です。ふんっと鼻で笑われましたわ。少しは元気になる効果があったのでしょうか?

「……お前はブリュンヒルデに生き写しだ」

 ええ、そう、聞いておりますわ。

「同じだ」

 はい?

「向ける思いは同じ。彼女に与えていたそれと同じものをお前に捧げよう」

 こういった言葉は言えるのに、愛しているという言葉はどうして言えないんですの? 遠回しすぎて分かりにくいですわ。

「お父様はわたくしを愛しているんですの?」
「そうだ」

 ここは即答ですのね。やっぱり父の真意は分かりません。

「昔、口答えをしただけで川に放り込まれましたわ」
「あれは……」

 ドルシア子爵は片手で顔をおおい、ため息をついた。

「大人げなかった。ついかっとなったんだ」

 あら、ここも意外ですわ。ちゃんと覚えていたんですのね。なんのことかと言われると思いましたのに……

「お父様の子じゃなくていいと言ったことが、そんなに腹立たしかったんですの?」
「……お前は私の子だ。他の誰の子でもない」

 これも昔よく聞いた台詞せりふですわね。確か、川へ叩き込まれたあの時も聞かされましたわ。お前は私の子だ、他の誰の子でもない、と。何をそんなにこだわっているのでしょう?

「疑うのか?」
「いえ、そういうわけでは……」

 そんな嘘をついても仕方がないでしょうに。

「お前は私の力を見事に受け継いでいる。間違いなく私の子だ」

 ドルシア子爵の大きな手が伸び、ローザの髪をでた。それこそ壊れ物を扱うように柔らかな手つきで……
 ローザは複雑な気持ちで自分の父親を眺めた。
 ええ、そうですわね。激高させなければ、父はいつだってこんな風に優しい。優しく見えてしまう。本当は優しいのだと勘違いしそうになるくらいに……
 ――言えないんだ!
 ローザは不思議だった。
 夜の闇のように恐ろしいほど美しい父の面差し。その奥に見えた、一片の人間らしさ。
 不思議です。揺らいだ父の方がずっと好ましいだなんて……。この気持ちはなんなのでしょうね? 自分でもよく分かりません。
 ドルシア子爵の口が動き、愛していると、そう告げたように見え、やはりローザは戸惑いを隠せない。こちらを見る眼差しは相変わらず水底のよう。なのに……
 ローザはそっと目を伏せた。

「お父様、今までの話をエイドリアンには?」
「する必要が?」

 面倒臭そうですわね。

「どちらにせよ、彼は薄々真相に気がついていますわ」
「……そうだな。口止めをしておけ。他に漏らせば始末すると」

 ローザは失笑してしまう。

「そこは大丈夫だと思いますわ」
「……随分ずいぶんと買っているな?」
「お父様こそ肩入れしているではありませんか」
「あれの父親に恩がある。ただ、それだけだ」
「恩?」
「私の身代わりになって死んだ」

 ローザは驚いた。問うような眼差しを向ければ、ドルシア子爵が肯定する。

「そうだ。処刑されたのは先々代バークレア伯ボドワンだ」
「それでバークレア伯爵家の復興を?」
「そうだ」

 ローザは全てに納得がいった。それで、こんならしくないことをしていたのだと。

「……随分ずいぶんと忠誠心の厚い臣下だったんですのね」
「そうだな。馬鹿がつくくらい」
「お父様、その言い方は……」

 ドルシア子爵がローザを見据みすえた。

「ああやって死刑執行人を味方につけるのなら、牢番ろうばんをも抱き込んで処刑予定の罪人を引っ張ってくれば良かったんだ。自分が犠牲になる必要がどこにある? 処刑直前に私と入れ替わったので、こちらは止めようがなかった。あの馬鹿が……」

 苦々しい口調である。ローザが取りなした。

「……誰もがお父様のように立ち回れるわけではありません。当時のバークレア伯爵にとっては、精一杯の行動だったのではありませんか?」
「ああ、そうかもな」

 やはり、どこか苛立ちを含んだ声音だ。
 感謝はしているけれど、馬鹿なやり方に腹を立てている、そんなところでしょうか?

「父親の死因をエイドリアンに伝えても?」
「……好きにしろ」

 ええ、お父様の正体がオーギュスト・ルルーシュ・リンドルンであることを明かすのなら、伝えてもいいタイミングですものね。それにしても……。あまりにもたくさんのことを知らされて、はぁ、頭がどうにかなりそうですわ。

「お父様、今回の件を宰相さいしょう様には……」

 ダスティーノ公爵邸で厄介になっているとローザが告げても、ドルシア子爵の反応は淡白だ。

「いい、黙っていろ。エクトルには私が直接話す。お前では説明しきれまい」
「お会いになるんですの?」
「そうだ、頃合いを見計らってな。ああ、食べたらどうだ? 全く手をつけていない」

 ドルシア子爵に促され、ローザは用意された菓子に目を向けた。色とりどりのマカロンにトリュフにベリーチーズタルトと、ローザの好物ばかりだ。

「いただきますわ」

 ローザは口元をほころばせ、トリュフを一つ手に取った。それを口に入れれば、雪のようにふわりと溶ける。ローザは幸せそうに笑った。元来が食いしん坊なのだ。なので、本当は夜会では料理にがっつきたい。楚々そそとした淑女を演じなければならないので、無理なのだが。

「……美味いか?」

 そう問われてちらりと見ると、ドルシア子爵は笑っていた。
 じっと見つめられて、なんだか食べにくいですわ。

「ええ、とても。お父様も一緒にいかがです?」
「いや、私はいい」

 そうですの。

「甘味はお嫌いですか?」

 デザートを出されても普通に食べていましたのに。

「……昔は好きだった。特にキリエのマドレーヌが気に入って王室御用達にしたか……」
「キリエの? あら、わたくしも好きですわ。今度お土産にお持ちしますわね」

 キリエはリンドルンの王都で有名な老舗しにせ菓子店である。

「いや……」

 ドルシア子爵はいらないと言いかけたようだが、途中で言葉を止めた。

「そうだな。もらおうか」

 気を変えたのか、代わりにそう口にする。ドルシア子爵の表情はやはり動かない。
 ローザが食べ終えて立ち上がると、ドルシア子爵が「今夜は泊まっていくといい」と告げ、同じように立ち上がった。
 この後は仕事、ですわね。本当に父は一日中仕事漬けです。
 ローザが自分の部屋へ行くと、ここを出た当時のままだった。大きな窓から燦々さんさんと差し込む光で室内は明るく、空気は軽やかで、ちり一つ落ちていない。テラスに出て庭園を見下ろすと、ローザが以前作った畑が見えた。
 ローザは楽しげに笑う。
 母親が好きだった本の主人公を、ローザはよく真似たものだ。こんな風に畑を作ったり、木登りをしたり、いちご摘みをしたり、料理をしたり、はたまたやしきの掃除をして使用人を驚かせたり、とにかくやりたいことをやり尽くしたように思う。
 そうそう、高飛車な笑い方を真似てみたりと……あらぁ? でも、もしかしたら、あの本を好きだったのは本当のお母様でしたの?
 ――お父様、この本は?
 ローザは本を見つけた時のことを思い出す。書斎を訪れた際、書棚にある架空冒険小説「アルルの虹」が目にとまり、不思議に思ったものだ。こんなものを父が読むのかと。
 ――お前の母親の愛読書だ。
 父はそう答えた。それでローザは俄然がぜん興味が湧き、むさぼるようにかの本を何度も読んだ。
 お母様が好きだった本だと聞かされて、あの本を好んだのはてっきりミランダ・ドルシアだとばかり思っていましたけれど、わたくしの実の母親であるブリュンヒルデ・ラトゥーア・リンドルンのことだったのかもしれませんわね。
 そういえば宰相さいしょう様も、お母様は幼い頃おてんばだったと言っておりましたわ。もしかしたらお母様もわたくしと同じようにしていたのかしら? 本当のお母様は一体どんな方だったのでしょう? お父様は過去の話を嫌がるので、一度も聞けたことがありませんけれど……
 クローゼットを開けると、見覚えのないドレスがローザの目にとまった。
 あら、ドレスが増えている?
 見覚えのない青いドレスを手に取ると、侍女のアンバーがローザの隣に並んだ。彼女の微笑みはいつだって柔らかく温かい。

「旦那様がお嬢様のためにと仕立てたものでございます。ドレスに合わせた宝石もありますのよ。ふふ、やはりお嬢様がいなくなって寂しかったようですわね」

 ローザはつい笑ってしまった。
 お父様が寂しい? ありえませんわ。本当にアンバーは人がい。母親のいないわたくしにとっては彼女が母親代わりだったかもしれません。冷たいお父様に代わって、わたくしを抱きしめてくれたのもアンバーでした。
 あら? でも……
 ――お父様、抱っこ……
 そういえば、抱っこはして下さいましたわね……
 ローザはふと、そんなことを思い出す。
 自分が五つか六つの頃のことだ。記憶にあるのは華やかなガーデンパーティーで、おそらく裕福な平民の集まりだったのだろう、どの子も着飾ってはいても、貴族としての礼節などそっちのけで、自分の母親に無邪気にすがって甘える、そんな光景だ。
 母親のいないローザはそれがうらやましくて、父親と触れ合えない寂しさが相まって、他の招待客と話し込んでいたドルシア子爵の服を引っ張って、抱っこをねだったのだ。
 すぐにはっと我に返って、慌てて手を離したけれど……
 はしたない、マナーがなっていないと叱られると思い、ローザは恐ろしさに身を縮めたが、思ったような展開にはならなかった。叱責されるどころか、ドルシア子爵はその場でローザを抱き上げてくれたのだ。ローザの姿に眩しそうに目を細めて……
 そこまで思い出し、ローザはもじもじとする。
 あ、あんな顔をするなんて反則です。お父様が子供には甘いと思うのは、こういう経験からですわね、きっと。今の今まですっかり忘れていましたわ。

「お嬢様、こちらをどうぞ」

 アンバーが見覚えのない宝石箱を差し出した。

「こちらは、旦那様がお嬢様のためにと用意されたものですわ」

 宝石箱を開けたローザは、目を見張る。そこにあったのは大粒のスターサファイアの首飾りだったのだ。吸い込まれそうなほど深い色合いの……。あまりの見事さに声も出ない。


しおりを挟む
1 / 4

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!


処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。