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エピソード0 ③

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「彼」に会えない物足りなさを感じる土日が過ぎて月曜日。

 五時には目が覚めて、すぐに駅に向かいたくなる。だからといって彼が早く来ることはないとわかっていても、体がムズムズと落ち着かない。六時には家を出た。

 もうすぐ今年の桜も終わってしまう。今週は雨の予報が出ていたから、雫と一緒にたくさんの花弁が落ちてしまうだろう。
 去年は骨折のため、駅前の桜を開花時期に見ることができなかった。今日はせっかく早くに出たのだから彼が来るまで桜と話そう。

「あの人に会わせてくれてありがとう」

 風がなくてもハラハラと花弁が舞い落ちる駅前は、桃色の霞がかかる幻想的な景色が広がっていた。
 わたしは桜の木の下で足を止め、背丈が届く花弁の先をくすぐりながら感謝を伝えた。
  そうして十分弱、待っていたもののいつもの時間になっても彼は姿を現さない。

 ────結局、踏切の音が鳴り初めても「彼」は現れず、次に会えたのは雨が降る木曜日だった。

 先週の金曜日からもう六日も「彼」の姿を見ていなかったわたしはすっかりしょげて「青菜に塩」どころではない。塩をかけられた蛞蝓くらいに存在が消えそうだ。

「絶対ストーカー女子高生って思われてるんだって」
「個人情報聞かれてヤバッって思われたのかも」

 揺れる電車の中、いつも一緒にいるクラスメートの二人が、からかうように肩を叩いてくる。

「やっぱりそうなのかなあ。ねえ、時間ずらされたりしてるのかなぁ」

 涙目になってくる。
 そんなわたしにギョッとした二人は、「あ、いや、なんか用事があったとか。ほら、春だから大学の始まる時間がまちまちとか」と、一転して取り繕うように微笑んだ。
 二人は私のひとつ前の駅で降りて、電車が発車するまでホームから手を振ってくれる。今度は「かわいそうに」とでも言いたげな同情的視線だ。

 あーあ。情けない。こんなことで泣けてくるなんて……でもわたしには「こんなこと」ではない。初めて恋をしてどうしたらいいのかわからない中で、自分なりにこの思いを大切にしている。
 
 毎朝会うだけの名前も知らない「彼」にこんなにも思い焦がれている。

 それが滲み出ていたのだろうか。やっぱり気持ち悪いと思われたのかも知れない。

 いや、でも彼がわたしに気づいたのは先週のことだしそんなにも会話はしていない。学生か、社会人かって聞いたくらいじゃない。

 ……きっと通学時間が変わったんだ。
 ……ああ、でもそれじゃあもう、彼は朝六時半に桜塚駅に現れないの?

 一駅五分強の間に思考がどんどん悲しい方に向かって、到着を告げるアナウンスでさえ悲しい声に聞こえる。

 もう、もっと明るくアナウンスできないの? せめて韻でも踏んでくれたら気持ちを切り替えられるのに。

 非のない電車と運転士さんを恨みがましく見送ってため息ひとつ。私は改札を抜け帰り道に足を向けた。
 
 ──あ……!

 ひりひりと細い雨が降る空の下。傘もささずにしっとりと濡れた桜をスマートフォンで撮影する人の後ろ姿が目に入って、心臓にさざ波が立つ。

 彼だ。

 駆け寄りたい気持ちがあるのに足が動かず、わたしは彼の後ろ姿を見守るように見つめた。
 
 彼は写真を取り終え、スマートフォンをポケットにしまうと、顔を上げてわたしがいる方向に視線を移した。自分に向けられる視線に気づいたのかもしれない。

 どうしよう、見つめていたことを気持ち悪いと思われたら……!

 私はパッと目線を外し、傘を少し傾けて顔を隠す。けれど「彼」は駅にむかう途中、私の横を過ぎるときに「こんにちは」と明るい声で言ってくれた。

 それは一瞬のことで。

 ──彼が行ってしまう。

 さっきまで浮かんでいた涙が目の縁を熱くして、同時に心も熱くなる。わたしの唇は勝手に動いた。

「あのっ。もう朝の電車には乗らないんですか!」

 怒っているみたいだっただろうか。
 駅構内に入ろうとしていた彼は足を止め、周囲を小さく見回す。最後に私の方に横顔を向けた。

「えっと……俺?」

 初めて会った日は「僕」と言っていたけれど、普段は「俺」なんだろうな。
 普段が出てしまうくらい「彼」は驚いたんだ
 けれど聞いてしまったからには後には退けない。わたしは傘を後ろにずらし、顔をしっかりと出して「そうです」と頷いた。

 彼は首を傾けてしばらく黙っていたものの、私の方へ戻って来て話をしてくれた。

「大学の近くに引っ越すことになってね。だからここから乗るのももうしばらくはないんだ」
「そ……なんですか……」

 予想していた答えのひとつではあったのに、後頭部をガツンと殴られたみたいだ。強い衝撃を受けた私はボンヤリとつぶやいた。

「朝同じ時間に駅にいた人間がいなくなると気になるよね。俺なんか桜の木に会えなくなるのが寂しくて写真を撮っちゃったし。なんか変な言い方だけど、今までありがとう。元気でね……もう転んじゃダメだよ」

 初めて会った日と同じ、柔らかい笑顔が胸を締めつける。

「じゃあ、また、ね」

 電車が来る時間が近づいているのだろう。彼は腕時計を確認すると、体の向きを駅へ戻した。

 ──いやだ。今度こそ、本当にもう行ってしまう。彼のことをなにも知らないまま、なにひとつ伝えられないまま……「またね」なんて言ってくれるけれど、もう二度と会えないかもしれない。

 でも、どうすることできるんだろう。
 最後にこうして話せただけでもよかったじゃない。最後にあの笑顔を向けてもらえた……充分だよ。

 月日が経てば他に好きな人が出来て……恋人もできたりして「それからの日々は幸せに暮らしましたとさ」になっているかもしれない。

 いつか、今日の日を思い出して、「あのときは子供だったなー」と、幼かった自分を可愛く思えるかもしれない。

 彼だって、名前も知らない女子高生に思いを告げられたらきっと困ってしまうもの。 無様に振られるだろうわたしだってそう。想像したら恥ずかしい。

 だから、これでいいんだ。初恋を素敵な思い出にして彼とは反対側に歩いて行こう。
 ……そう思うのに、涙が出て顔がぐちゃぐちゃになるのが自分でもわかる。

  こんな顔を誰にも見られたくなくて、私は駆け出す。

「桜さん、これでよかったよね」

 見上げた枝の桜の枝の先には、若い緑色の葉が顔を出していた。
 そしてわたしは思い出す。

 彼と初めて会った、転んで桜の枝を見上げたあの日。

 桜の枝が全部見えて、開花したときに転んだら今よりいい景色が見えるのかも……。
 呑気にそんなことを思った。

「転んだら今よりいい景色が見える……」

 だったら。
 転んだっていいじゃない。

 なにもしないで流れのまま日々を生きてくよりも、失敗したっていい。後悔したっていい。あの桜のように、咲き誇って潔く散れば、違う景色が見えてくるかもしれない。

 あの日、転ばなければ桜の枝全体を見上げることができなかったように、失敗したってこの先たくさん枝分かれして行く人生を楽しむ糧には成り得るはずだ!

 わたしは傘を放り出し、桜塚駅二番ホームへと駆け出した。

 踏切の音が鳴る。必死で走って、なんとか遮断機が降り切る前に二番ホームへと繋がる石段に足が着く。

 電車の姿はまだ見えない。
 彼の姿は約二十メートル先。
 わたしは深呼吸をしてから、再びそこへ向けて駆け出す。

 わたしの姿を見つけた彼が、驚いた様子になる。
 わたしは胸を押さえながら、上がる息と早打ちする心臓を落ち着ける。

 そしてわたしは、彼の目の前に立った。

「あの、私……!」

 私の恋は駆け出したばかり。ここからたくさん道が枝分かれして、笑って泣いて悩んで前へ進んで行く。
 誰もがそうであるように。

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