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エピソード0 ②

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 それからギプスが取れるまでの一ヶ月間、わたしは母親が運転する車での登校になり、その途中で中学の卒業式が来て春休みにもなったため、桜塚駅には行けなかった。

 ──彼に会いたい。彼にお礼が言いたい。

 日が重なるごとに思いは強くなった。
 会えるだろうか、もう会えないだろうか……会えない予測は思ったよりも私の胸を痛くした。足の痛みは一週間もかからず収まったのに、怪我をしていない胸が、ちりりと痛む。

 心配そうにしてくれた顔、おぶってくれた時の背中の暖かさと、首元から香る優しい香り。ホームの椅子で一緒に待っていてくれた間の穏やかな話し声。

 思い出すと胸が痛くて苦しくて、切なさを初めて体験した。そしてそれが「恋」だと気づくのに、時間はかからなかった。


***

 あの日はたまたま同じ時間に居合わせただけだったのだろう。
 足が治ってから電車通学に戻っても、桜塚駅で彼に会うことはなかった。

 それが、あきらめかけた七月のこと。
 高校一年生の一学期、美化委員だったわたしは、花壇の手入れ活動のために早朝登校をする日があった。
 六時三十分の電車に乗るために眠い目をこすりながら駅まで来て、到着した瞬間、途端に目が覚めた。

 あの人だ!

 二番ホームで電車を待つ彼の姿に目が釘付けになった。声をかけようと、わたしはいそいで足を踏み出した。
 けれど……あの日から四ヶ月の月日が経ち、わたしは中学の制服から高校の制服に変わって、ショートヘアだった髪も肩まで伸びている。突然声をかけて私がわかるだろうかと思うと急に怖気づいて、出会ったら言うはずだった「あのときはありがとうございます」の言葉は喉の奥に引っ込んでしまった。

 そうしてまごついている間に、あ日と同じように踏切の警報音が鳴る。
 彼の目線はわたしをかすめることもなく、到着する電車に注がれていて、電車はまた、彼を乗せて行ってしまった。

 そしてわたしは次の日も朝六時三十分に駅に行った。彼はいた。次の日も、また次の日も。
 こうして平日の毎朝六時三十分。桜塚駅一番ホームに居ることが、わたしの日課になった。

 ただ、一度声をかけ損ねると、もう勇気は出てこない。

 今日は髪が跳ねているから。
 今日は「彼」の元気がなさそうだから。
 今日は。今日も。

 そうやって声をかけられない理由をたくさん作った。
 けれど一番は、彼がわたしを覚えてくれている自信がないからだ。

 声をかけたらそこで終わってしまうんじゃないか、もう姿を見ることさえできなくなるんじゃないか。
 そんな怖さが、わたしに勇気を与えなかった。

 このままなにも言わなければ、二番ホームにいる「彼」に毎日会うことはできる。
 まるでストーカーみたいだけれど、気づかれずにそっと彼を見ていることが、幼いわたしにできる精一杯だった。



 そうして今朝も。桜塚駅に到着した。
 いつもより少しだけ早く着いて、ほぼ満開になった駅前の桜の下で足を止める。

  足元を確認し、障害物がない事を確認してからゆっくりと枝を見上げた。
 あの日、足を傷めたけれど、この桜の木を見ていたおかげで「彼」に出会えたのだと思うと、以前より愛着が湧いていた。

「おはよう」

 不意に背中から声がして、振り向いて息が止まりそうになる。

「あっ、覚えてないかな。去年ここで会ったんだけど」

 そこには彼がいて、動きが止まったわたしに対して少し焦っている。

 私はブンブンと頭を振った。

「覚えてます! あの、わたしずっとお礼を言いたくて……」
「お礼なんていいよ。もうなんともなさそうでよかった」

 それだけ言うと、彼は「電車が来るから行くね。急に声をかけてごめん。じゃあね」とわたしの横を通りすぎ、あっという間に踏切を渡って、二番ホームに入った。

 彼がわたしを覚えてくれていた! やった、やった、やった!
 わたしはホームに駆け出し、大声で叫びたい気分に駆られた……もちろん、我慢したけれど。


***



 今日から五分早く家を出る。もしかしたらまた彼と話せるかもしれないと期待を込めて。
 桜の下まで来れば立ち止まって深呼吸をした。耳を澄ますと靴音が聞こえてくる。

「あれ? 今日も会ったね。しばらくこの時間の電車に乗るの?」

 明るい彼の声に自然に口角が上がる。

「はい、そうなんです」

 本当はもう半年以上この時間に来ているというのに、いかにも偶然を装って聞きたかったことを聞いてみた。

「あの、いつもこの時間なんですか? お仕事ですか? 学校ですか?」
「大学だよ、通学に二時間かかるんだ。でも……あ、行かなきゃ。じゃあまたね!」
「はい、また明日!」

 今日もすぐに二番ホームに向かう彼を、舞い落ちる桜の花びらと一緒に見送る。

 そっか、大学生なんだ。でも……言いかけていた「でも」ってなんだろう。

 途切れた会話が気にはなったものの、彼と会話が出来た嬉しさが心を占領していた。

 毎日少しだけでも彼と話せたら、いつか名前を聞けるだろうか。いつかわたしの名前も聞いてくれるだろうか。

 いつか……いつか思いを伝えられるだろうか。
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