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問題集の対価として

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 その日の放課後、フランシーナはエドゥアルドを裏庭へ呼び出した。


 いつも人に囲まれているエドゥアルドとは、呼び出しでもしないと話すことが出来ない。
 皆から遠巻きにされつつフランシーナが声をかけると、彼は快く呼び出しに応じてくれた。

「どうしたの、フランシーナ。普段なら君は自習室へ行ってる時間じゃない?」
「え、ご存知なのですか」
「うん。それで、僕になにか用事かな」

 エドゥアルドは裏庭の土を踏みしめながら、ゆっくりとフランシーナの側へと歩み寄る。
 その顔は今朝の素っ気なさなんて忘れてしまいそうなほど、優しく爽やかな笑顔だ。

「あの……噂のことなのですが」
「ああ、みんな暇なのかな。学園中どこに行っても、君との仲について聞かれるよ」

 どうやらエドゥアルドも、ありもしないデマに翻弄されているらしい。
 やはりこのような噂は一刻も早く消し去るべきだ。フランシーナは改めて噂に辟易させられた。

「私も、ほとほと困っているのです。そこで……お願いです、エドゥアルド様から噂について否定してくださいませんか」
「僕から?」
「はい。いくら私が噂について『違う』と言い張っても、中々聞き入れてはもらえません。ただ、エドゥアルド様の言葉なら皆納得するでしょう。頼りきりで申し訳ないのですが、エドゥアルド様からきっぱりと否定していただけたならこんな噂なんてすぐ立ち消えるかと……」
「……悪いけど否定するつもりは無いかな」
「えっ!?」

 爽やかな笑顔を浮かべたままのエドゥアルドからは、予想だにしない答えが返ってきた。

 当てが外れた。
 てっきり、この申し入れは受けてもらえるものだと思い込んでいたのだ。この噂はまったくのデタラメで、彼だって困っているはずなのに――

「で、でも! このままでは、噂が信じ込まれてしまいます」
「そうかもしれないね。でも、僕はそのほうが都合がいい」
「そんな、どうして……」
「なかなか疲れるんだよ。大勢からの好意を受け取る毎日というものも」

 名門ロブレス侯爵家の嫡男。
 容姿端麗、文武両道、生徒代表を務める『学園の貴公子』。
 周りからの期待を一身に背負う彼は、人望も厚く常に生徒達を引き寄せる。

 それはもちろん、異性としても。

「不特定多数から一方的に好意を寄せられるって、それなりに負担も大きいんだ。勇気を出して告白してくる子に対しては、知らないふりも出来ないし。傷付けないように、誠実に断り続けるのって、すごくすごく気を遣うんだよ」
「それは……大変なことだとは思いますが、噂を否定しないのと何の関係が……」
「君が僕の『恋人』になってくれれば、これ以上に助かることはないから」

 そう言って、エドゥアルドは狼狽えるフランシーナの手を取った。

 その顔は相変わらず微笑んでいる。まるで、作り上げられた壁のように。

「『恋人がいるから』――告白されたとしても、その一言で断ることが出来る。なんて楽なんだろうね。誠実でいて、筋の通った断り文句だ」
「そ、それなら、本当に『恋人』をお作りになったらよろしいではないですか。私などではなく、エドゥアルド様に釣り合うような……エドゥアルド様の恋人になりたいと望む方はたくさんいらっしゃるのですから」
「言ったでしょ、一方的に好意を寄せられるって疲れるんだよ。その点、君は僕に好意など持っていない。一緒にいてとても楽だ」

 押し寄せる好意に疲れ果てたエドゥアルドは、フランシーナを仮初の『恋人』として選んだらしい。

 それはフランシーナがエドゥアルドに対し何の下心も無いからだと言うが、それにしても無茶苦茶な話ではないか。

「つまり、噂に便乗して私を利用したいということですね。……あなたを頼ろうとした私が愚かでした」
「利用だなんて、そんなつもりはないよ」
「話になりません。失礼いたします」
「待って」

 フランシーナは、その場を立ち去ろうとした。

 しかしその手を、エドゥアルドは離そうとしない。
 むしろ手を握る力は、わずかに強くなった気さえする。

「――君は、僕へ恩を感じていたでしょう?」
「えっ?」
「分かるんだ。真面目なフランシーナのことだから、問題集のお返しまで用意しようとしていたでしょう」

 昨夜のフランシーナを見透かすようなエドゥアルドの瞳が、静かにこちらを見下ろしている。

 たしかに、昨日もヴィヴィアナにお返しについて相談した。
 何を贈れば彼が喜ぶだろうか、彼は何を望むのだろうか。常に無難を選ぶフランシーナにしては珍しく、ちゃんと悩みに悩んだのだった。

 結局、何も案が浮かばぬまま朝を迎えたのだけれど。

「卒業するまで、僕の『恋人役』を演じてくれないかな。問題集のとして」
「それが……お礼?」
「君は問題集を使って事務官の任用試験に無事合格する。僕は卒業まで、君を恋人に据えて心穏やかに過ごせる。良い取引だと思うんだけどな」
「取引……」

 問題集の対価としてエドゥアルドの望む『お礼』とは、フランシーナが恋人役を務めることであった。

 お返しをするならば彼が喜ぶものを。昨夜はそう考えていたけれど、まさかそれが『恋人役』だなんて、そんなこと――


 心は揺れるものの、頭を掠めるのはボルドーのガウンを着た憧れの姿。

 ボルドーのガウン、それは王家直属の事務官だけが着ることを許される、選ばれし者の証だ。
 フランシーナはそれを身に纏うために、勉強に明け暮れていた。

 恋人役なんて御免ではあるが、事務官としての将来と天秤にかければ……やがて心は決まってしまう。
 
「……務まるでしょうか、私なんかに」
「ああ、君でなければ出来ないことだよ」

 彼は手を握り続けた。
 決してフランシーナを離さないとでもいうように。
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