すべて、青

月波結

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 三日間、雨は降り注いだ。
 真っ黒な海は闇を飲み込んで暴れ、空はいつまでも星一つ、姿を見せなかった。
 わたしたちは毎日のを最小限に減らして、あとは毛布にくるまっていた。
 外に出るのはトイレの水汲みだけで、それは男子が受け持ってくれたのだけど、佳祐の熱は完全に下がることはなくて、用のない時、彼は薬を飲んで横になっていた。いつもの快活さが損なわれ、わたしたち全員が静かな時間を過ごした。

「うわぁ、見て見て、天使の梯子!」
 ある朝、目が覚めると綾乃が走っていって窓に飛びついた。
 そこには嘘のように美しい景色が広がり、まだ朝焼けを残した空はオレンジ色に雲海を染めて、水面はそのままそれを複写した。
 天使の梯子はそんな雲の合間から真っ直ぐに水面に向かって降りていく。
 それまで天使の梯子というのは、天使が天国に帰るために上る梯子なのだと思っていたけれど、いまは天使にこの世に下りてきてほしいと切に思った。

 昨日の夕方には佳祐の熱はすっかり下がった。廊下でばったり会った時に「ありがとう。名璃子のお陰」と一言いってすれ違って行った。
 あの雷の日の佳祐の行動を思うと、恥ずかしさで胸がかぁっとなったけれど、きっと熱のせいだったんだと思うことにした。引かれた手首にまだ痛みが残ってるような気がして、何度も手首をさすった。
 佳祐には綾乃がいる。

 それ以上に湖西と顔を合わせる方がずっと気まずくて、朝、いつも通りピアノを弾いていると「一緒にいい?」と隣にやってきた。
 わたしは席を譲ってイスを下り、湖西の鍵盤を見つめる真剣な眼差しを見ていた。
 いつになく真剣で、指が緊張しているのがわかる。なにを弾くつもりなのか、気になる。
「…………」
 呆然と立ち尽くす。
 流れるようなキレイな旋律。
 指先のひとつひとつに気を払われた繊細な動き。

 突然、音が止んだ。
「ごめん、まだここまで。しかもまだ原曲の速さで弾けないんだよ」
 彼の横顔は照れくさそうだった。
 なぜならいま演奏されたのがわたしのすきな『アラベスク第一番』だったから。
「すごい、いつ練習したの?」
「少しずつ、ほら例のピアノコンサートの時にね。渡辺さんが付き合ってくれて」
 綾乃はまるで自分の兄のように湖西に懐いていた。
「『気に入ってもらえるといいね』って言われたんだけど、良かった?」
「ドビュッシー、弾けるだけですごい」
 なんだかその腕に妬けてしまう。

 湖西は学校に来なかった間の話をした。
 それは例えば部屋にこもっていた、とか、誰にも会いたくなかった、という内容ではなかった。
「ピアノ教室に通ってたんだ。個人でやってる先生で、小さい時からずっと習ってて、『学校に行かないならここに来なさい』って言われて。でもさ、ピアノって練習をして上達したのを先生に見てもらって、新しいものを教えてくれるスタイルじゃない? 毎日通うにはいい逃げ場所だったんだけど、先生は月曜日と木曜日の週二回しか通うのを許してくれなかったんだよ。残りの日にはみっちり家で練習しなさいって。お見通しなんだよ。だって実の祖父母より会ってる回数が多いんだから。親はもうなにも言わなかったよ。遠巻きに見てただけ」
 ふうん、とか、そうなんだ、とか簡単に答えられる話ではなかった。

 わたしは俯いて「ドビュッシーありがとう、うれしい」と言った。
「よかった、喜んでもらえて。僕にはなにもないけど、ピアノなら弾けるから。それで青山さんが少しでも元気になってくれたら僕もうれしい」
「一生懸命になってもらうほどの価値なんてないよ。わたしにはなにもないもの」
「青山さんは青山さんでいいんだよ。あのさ……名前で呼んでもいい?」
 突然の申し出に胸がずきんと音を立てた。
 別に嫌なわけではなかった。驚いたんだ。佳祐以外の男性に、この歳になって名前で呼ばれたことがなかった。
 嘘。あとは最低なパパ。パパはいまでも平気でわたしの名前を呼ぶ。
「いいよ、好きに呼んで」
 満足そうに彼は口角を上げた。長いまつ毛が瞳を彩った。

 と、綾乃がぽとぽとと疲れた足取りでやって来た。息を切らしている。
「波の音がいつもより近い気がしたの。それで坂の下までちょっとした興味で様子を見に行ったんだけど、水位が上がってる気がするの。名璃子も一緒に来てみて」
 え、と混乱している間に綾乃はわたしの手を取り昇降口に向かった。
 湖西は驚いた様子で、佳祐にも伝えてくると言った。

 変わらない景色。
 三輪車、風鈴、スーパー。
 ……たぷん、たぷんと岸辺を打つ水は確かに水位が高かった。
「すごく増えたと思わない?」
 綾乃はしゃがんでそっと水の中に手を入れた。それくらいでは水底に手が届きそうにない。
「どれくらい深いのかな?」
「待って」
 わたしは恐る恐る靴と靴下を脱いで足を水に浸していった。
「名璃子、スカート濡れちゃう」
「膝くらいまであるね」
 水は静かな風に揺れて小さく波打った。

「……どうしよう? このことでなにか変わると思う?」
「わからない。とりあえず相談してみようよ」
 そうだね、と綾乃は答えて、わたしは慎重に水から上がった。
「ねえ、また雨が降ったら、どんどん水が増えるんじゃない?」
「それは困るよね……。あまり雨が降らないことを祈ることしかできないね。学校が沈んじゃうよ。いまのわたしたちは文明社会にいるとは言い難いもの、神頼みしかできないよね」

 学校に戻るとそこには赤いゴムボートがあった。防災倉庫にあった筏《いかだ》というのはそれのことで、佳祐が足踏み式ポンプで膨らましたということだった。
「佳祐?」
「向こうに行ってこようと思う。水深はどれくらいだった?」
「……わたしの膝くらい」
「じゃあ乗っていけそうだな」
 佳祐の目はするべきことを決めたと語っていた。筏に向ける視線が、まるで頼もしい仲間を見るそれのようだった。

「みんなで乗れそうだね」
「向こうに行ったら安全かどうかわからない。どんなやつがいるのかわからないんだぞ。女子はお留守番」
「でも女の子だけでここに置いていくのは」
「じゃあ湖西も留守番。ひとりで行ってくる」
 綾乃は佳祐のまくったジャージの袖を指でつまんだ。背の高い佳祐は背の小さい綾乃を見下ろした。
「離れ離れになるなんて無理だよ。そうなるくらいなら行かないで。向こうのひとのことはもう忘れようよ」
 綾乃の切々とした願いに佳祐はもちろん頷いたりしなかった。正義感の強い彼らしく、心はもう動かないんだろう。
「お願い」
 ポンと綾乃の頭に大きな手を置くと、佳祐はわたしを見た。
「あとのことは頼んだ」
「すぐに行くつもり?」
「そうだな、準備をしたら」
「待って! わたし、向こうのひとに合図、送ってみる。向こうのひとだってもしかしたら移動したかもしれないし、そうしたら無駄足になっちゃうでしょう?」

 名璃子ちゃん、と湖西がわたしを呼ぶ声が背中に聞こえた。
 心臓が訳もなく強く打った。
 校舎を走って階段を手すりに掴まって駆け上がれるだけ駆けた。
 わたしは佳祐の彼女ではない。だから彼を止める理由を持たない。
 してあげられることと言えば、協力してあげることだ。彼が危険な目に遭わないように、困らないようにサポートしてあげることしかわたしにはできない。

 幼なじみだから心配なんだ。

 二段飛ばしで階段を四階まで上りきるのは、普段運動をしないわたしには無理で、踊り場で休むと微かな吐き気を感じた――。




 

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