今、「何を学ぶか」は急速に変わってきていると思います。正解がある問いなら、ChatGPTに聞けばいい。すぐに答えてくれるでしょう。人間に求められているのは、こうした生成AIにでもできる「答える能力」ではなく、「課題を見いだす力」「課題に向き合う力」です。
たとえば地球環境を良くするにはどうしたらいいかという問いには、明確な正解がありません。地球温暖化を食い止めるために脱炭素社会に取り組む、これは一つの答えでしょう。
しかし一方、安価なエネルギーを必要としている発展途上国にとって、脱炭素は貧困を解決する手段にはならず、むしろ増大させる可能性すらあります。トレードオフが生じるのです。すると、どこまで温暖化対策をして、どこまで貧困対策に取り組むのか、このバランスを考えるのが人間の仕事になります。
生成AIが今後さらに進化していけば、今のプロンプトエンジニアリングといわれる、まるでプログラミングをするかのような精緻な問いを投げかけなくても、もっと自然な形で答えてくれるようになるでしょう。しかしそれでもなお、「何を聞くのか」「どこまで問いを深めるのか」という、探究の軸となる部分の重要性は変わりません。
私はずっと、日本の20世紀はパッションの時代、21世紀はロジックとエビデンスの時代だと言ってきました。かつては、ふわっとしたパッションだけで何かを語っていればよかったんです。
よく知られているのが「風の息づかい」論です。2005年に起きたJR羽越本線脱線事故で、『毎日新聞』の社説が「風の息づかいを感じていれば(事故の原因となった突風の)気配をつかめたのではないか」と批判しました。いかにも20世紀の日本的な書きぶりです。
しかし今、特にインターネット上では、そんなパッションよりもロジカルであること、エビデンスがあることが重視されています。AIとの対話が増えれば、人間のコミュニケーションにも大いに影響を与え、今後ますますロジカルとエビデンスが重要になってくると思います。
さらに今の社会を難しくしているのが、それぞれの分野で専門性が高まっていることです。SNSで少し専門的な分野について意見を言おうものなら、その道の専門家や研究者がたちどころに現れ、詳しく意見を言ったり反論したりします。したがって、ある分野の知識をどこまで深めるかは見極めが難しいのです。
とはいえ、これからはジェネラリストではなくスペシャリストが求められる時代であることは間違いありません。今の若い人は管理職になりたがらないという話を耳にしますが、気持ちはわかります。残業手当がつかなくなるという金銭的な理由もありますが、何より管理職というマネージャーになっても得られる知見がないですから。