これは、NHK受信料制度等検討委員会が2017年7月に答申した「常時同時配信の負担のあり方について」(以下「答申」という)の中の一文である。答申とともに公表されている参考資料によれば、テレビを見ない人の割合は2010年時点で5%ほどだったのが、2015年には10%にまで跳ね上がったのだという。
それにしても、テレビを「まったく見ない視聴者」とのくだりには、思わず吹き出してしまった。テレビをまったく見ない人のことを「視聴者」とはとても呼べないからだ。この答申を書いた皆さんには、日本国民=NHKの視聴者であるとの思い込みがあるようだ。ちなみにNHKでは、テレビで放送する番組をインターネットにも同時に流すことを「常時同時配信」と呼んでいる。
そもそも、テレビを見ない若い人たちが増えているということは、彼らにとってテレビは必要とされていない――ということにほかならない。NHKの答申でも触れられているとおり、テレビは視聴者を減らし続けている。
「視聴率1%は100万人の視聴に相当する」と、まことしやかに語られていた時代があった。今から20年ほど前、1990年代の話である。10%なら1000万人。つまり人口1億人の日本人のすべてがテレビを見ていると仮定していた。その時代の人々は、翌日の学校や職場で、友人や同僚との話題に乗り損ねないよう、ゴールデンタイムの人気番組は欠かさず見ていたものだ。それから20年。
「金曜夜8時のあの番組は欠かさず見る」「毎週●曜日はこの雑誌を買う」といった習慣は、完全に過去のものとなった。21世紀生まれの若者に、こういった習慣はない。テレビを囲む「お茶の間」という言葉は死語となり、テレビは主役の座をインターネットに奪われた。
そこでNHKは、テレビを持っていなかったり、テレビをまったく見ない、もしくは見なくなったりした人々を念頭に、前掲の「常時同時配信」計画を進めている。若者たちの重要なインフラであるインターネットにテレビ番組を流し、ついでにNHK受信料もいただこう――という構想だ。しかし、である。
テレビから離れていった人たちからもカネを取り立てようというのだから、押し売りとさして変わらない。放送だけでは早晩立ち行かなくなるという、NHK経営陣の危機感の表れともいえるだろう。
ここにきてNHKは、自身の公共性をアピールした「皆様のNHK」という看板をかなぐり捨て、自身の生き残りをかけた「NHKのためのNHK」へと脱皮しようとしている。視聴者を置き去りにして。
NHKの答申はいう。
「放送の常時同時配信は、NHKが放送の世界で果たしている公共性を、インターネットを通じても発揮するためのサービスと考えられ、インフラの整備や国民的な合意形成の環境が整うことを前提に、受信料型を目指すことに一定の合理性があると考えられる」(「答申」要旨より)
本当だろうか。日本語として大変わかりづらい言い回しであり、つまり不親切なことこの上ない文章だが、答申のこの部分がNHK「ネット受信料」導入の根拠とされているので、付き合わざるを得ない。お許しいただきたい。
キーワードは2つ。「公共性」と「国民的な合意」だ。NHKが、テレビで放送する番組をインターネットにも同時に流すことに「公共性」があるのなら、国民が合意した場合に限り、「ネット受信料」制度の導入は道理にかなうと言っている。しかし、国民の合意を得られる保証は今のところまったくない。
答申の肝は「公共性」のほうだ。そもそも、ネットの世界における「公共性」とはどんなものなのか。その定義がきちんと定まらないことには、合意もへったくれもない。NHKの番組をネットに流しさえすれば、直ちに公共性が発生するというものでもない。それに、公共性があれば情報を一方的に流すことでカネを取ってもいいという決まりもない。