3位は、ソニー(現ソニーグループ)の創業者、井深大。モノづくりの天才、天衣無縫の技術者。盛田昭夫と手を携えてソニーを創業、戦後日本を代表する企業に育てた井深大には、発明家としての伝説が多い。トランジスタラジオからウォークマンまで、世界に送り出した新製品の多くは、技術では説明しきれない人をひきつける何かをもつ。時代の予兆を製品にする感性が井深にあったのだろう。「日本発、世界初のものを創ってこそ、人より先に進むことができるのだ」。井深のソニースピリットはいまだに輝きを失わない。
4位は、本田技研工業の創業者、本田宗一郎。荒廃と財閥解体の中から動き出した日本経済。権威や常識を覆した自由競争の時代の出現を、本田宗一郎は待っていた。ホンダの創業者としての強烈な個性と独創性は世界を駆け巡った。オートバイの生産に乗り出す。当時、欧米では日本製のオートバイは見向きもされなかったが、マン島レースで優勝という快挙をなしとげた。オートバイで世界を席巻すると、本田は自動車に挑戦。低公害エンジンCVCCを積んで業界に新風を吹き込んだ。ホンダ以前の日本車に対する評価は「欧米のまねをしてうまくつくったクルマ」の域をでなかった。ホンダの車が登場して初めて世界は、その独創性を高く評価した。
5位は、壽屋(現サントリーホールディングス)創業者の鳥井信治郎。1960年、自宅で療養していた鳥井信治郎のもとに、次男の佐治敬三(母方の養子となり佐治姓を名乗る)が訪れた。ビール事業への進出を告げるためだった。ビール業界は当時、キリン、アサヒ、サッポロの大手3社がほぼ100%のシェアを握り、販売ルートも大手3社が専属契約を結んでいるため、他社が参入するのは不可能といわれた。
それでも、洋酒事業をトップに育てた佐治は、ビール事業への挑戦に情熱を燃やした。当時の壽屋の売上高は、わずか300億円。ビール事業は大きなリスクを伴う賭けだった。佐治は父、鳥井信治郎にビール事業への進出を打ち明けた。
鳥井は佐治に申し渡した。「わてはこれまでウィスキーに命を賭けてきた。あんたはビールに賭けようというねんな。人生はとどのつまり賭けや。わしは何も言わん。やってみなはれ」。
社名を壽屋からサントリーに変更し、洋酒会社からビールを陣営に加えた総合食品・嗜好品メーカーへと大“変身”を遂げた。
(文=有森隆/ジャーナリスト、文中敬称略)