幕末当時、宮家には伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮の4親王家があったが、幕末から明治にかけて桂宮と閑院宮が断絶した。ただ、閑院宮は伏見宮から載仁親王が入り継承された。このため、明治初期には有栖川宮のほか、伏見宮と、伏見宮から分かれた久邇宮、閑院宮、北白川宮などと、さらに久邇宮から分かれた賀陽宮、梨本宮などがあった。そして、明治天皇の結婚相手と目された、恒久と成久は北白川宮の長男と次男、栽仁は有栖川宮の継嗣、鳩彦と稔彦は久邇宮の5男と6男だったのである(夭折者をのぞく)。
年齢順にいけば、恒久と昌子、成久と房子、栽仁と允子、鳩彦と聡子という組み合わせが想定できた。皇室の婚姻には幼いうちに婚約してしまう事例も多く、『明治天皇紀』の1893(明治26)年11月1日に「房子内親王周宮を栽仁王有栖川宮に婚嫁せしめんとの叡旨(えいし)あり」とある。「叡旨」とは「天皇の考え」の意である。明治天皇は娘の房子を皇族である栽仁王と結婚させたいと思い、有栖川宮家の当主である熾仁(たるひと)親王に伝えたのである。栽仁の実父は有栖川宮威仁(たけひと)親王であり、熾仁は子がいないままこの翌年に亡くなって弟の威仁が宮家を継ぐのだが、当時はまだ熾仁が当主であったため、天皇は栽仁の伯父である熾仁に婚約の意を告げたのである。もっとも、この時、栽仁は6歳、房子は3歳であり、結婚はまだまだ先のことであった。
この話は、その後、1906(明治39)年1月9日の『明治天皇紀』に、「昌子内親王を以て恒久王に、允子内親王を以て栽仁王に配せんとし、内旨を侍従長侯爵徳大寺実則に伝へたまふ」と出てくる。威仁が「内親王一人を得て其嗣栽仁王の妃と為さんと欲し」、伊藤博文らを介して内々に請願していたのである。明治天皇は、日露戦争中は返事をしないでいたが、戦争も終結したので、内々にその命を下したのである。
ところがなんと、結婚相手が変わってしまったのである。
はじめ栽仁は房子と婚約していたが、13年後には、房子の妹の允子と結婚することになった。しかも、房子の姉の昌子は恒久と結婚するという。房子については、なんの話も出ていない。13年も経てば、内部事情も変わるのであろうが、お互いの恋愛感情はどうなっていたのだろう。というか、当時はそんなものだったのだろう。
話はこれで終わらない。
栽仁は1908年3月、海軍兵学校卒業間際に盲腸炎となり術後に容体が悪化し、4月7日に満20歳で他界してしまう。このため、允子は鳩彦と結婚することになる。
この間、1907年2月26日、故北白川宮能久親王妃の富子と、故小松宮彰仁親王妃の頼子とが相談し、北白川宮輝久を皇族のまま小松宮家を継がせようとしたが、皇族の養子は認められていなかったため、輝久は臣籍降下して侯爵となり、小松宮家の祭祀を継承した。
つまりは、6人いた適齢の皇族男子のうち2人が候補からはずれたのである。残ったのが、北白川宮家の恒久と成久、久邇宮家の鳩彦と稔彦であった。年齢差は、恒久が5歳年長で、ほか3人は同年であった。そのうち成久が一番早く、鳩彦は半年遅かった。しかも異母兄弟である鳩彦と稔彦は2カ月違いであり、双子のような存在でもあった。