とはいえ、当時、宮家当主であったのは、成久だけであった。先代の能久親王が1895年の台湾接収で戦病死し、成久が若いながらも宮家当主となっていた。恒久は成久の兄でありながらも、庶子であるため宮家を継げなかった。鳩彦と稔彦は、久邇宮家の5男と6男であり、兄たちはそれぞれ賀陽宮、久邇宮、梨本宮、久邇宮別家の当主となっていた。
このため、明治天皇は娘たちの嫁ぎ先の安定のため、恒久に竹田宮、鳩彦に朝香宮、稔彦に東久邇宮の称号を与え、独立した新宮家の当主としたのである。宮内庁編『皇室制度史料 皇族四』には「竹田宮は北白川宮能久親王の王子恒久王が明治天皇の皇女昌子内親王との結婚に先立ち賜った宮号で、朝香宮は久邇宮朝彦親王の王子鳩彦王に、東久邇宮も同親王の王子稔彦王に賜った宮号で、両王は間もなく明治天皇の皇女と結婚している」とある。1906年(明治39)のことであった。これで、宮家数も有栖川、華頂、賀陽、閑院、北白川、久邇、梨本、東伏見、伏見、山階の10宮家(なお明治初期にあった桂、小松はすでに断絶し、のちに有栖川と東伏見も断絶する)から、朝香、竹田、東久邇を加えた13宮家となった。
そして、これら皇族男子の年齢順に、明治天皇の皇女たちもそれぞれ、昌子、房子、允子、聡子の年齢順に嫁いだのである。それも、昌子は1908年、房子は1909年、允子は1910年、聡子は1915年(この間、1912年の明治天皇崩御と1914年の昭憲皇太后崩御があった)と、年齢順に結婚していったのである。
ところで、もし明治天皇の10人の娘たちがみな成人していたら、どうなっていただろうか。年長の常宮昌子の前には稚高依姫尊(わかたかよりひめのみこと)、梅宮薫子(しげこ)、滋宮韶子(あきこ)、増宮章子(ふみこ)、久宮静子(しずこ)の5人の娘がいたし、年少の泰宮聡子の3歳下には2歳で夭折した貞宮多喜子もいた。これらの娘たちの嫁ぎ先のために宮家を作った場合、そのお相手さがしも大変だったろうし、宮家設立のための経済的負担も大変だったろう。当時の宮家はそれぞれ東京市内に1万坪ほどの本邸宅地を持ち、子女数に応じた皇族費も出ていた。経済負担を減らすために、1920年(大正9)に「皇族の降下に関する施行準則」が裁定され、宮家の当主の直系子孫以外は皇籍離脱をする定めも決められたほどである。宮家増大は、難しい問題になっていた。その経済的負担などを考慮した場合、皇族は数が多すぎてもやっかいだったのだ。
いずれにせよ、明治天皇の娘たちの結婚には、皇族、それも身分や家政が安定した宮家当主に嫁ぐべきであるという明治天皇の意思が反映された。そのために、すでに旧皇室典範が制定され、近代皇族制度が確立し安定した後の明治30年代になって、新たに3宮家を設置したのである。宮家当主に嫁ぐことによって、4人の皇女たちは身分的にも経済的にも、従来通りの保証を確保できたのである。竹田、朝香、東久邇の3宮家は、いわば明治天皇の娘のために設置された女性宮家であった。つまり、この3宮家の子孫はみな明治天皇の女系なのである。
ところで、北白川宮家をふくむこれら4宮家の夫婦仲はどうであったのだろうか。
自由恋愛での結婚は、当時の社会状況からしても、皇室の慣例からしても想定できない。竹田宮はスペイン風邪で早世してしまい、夫婦生活も短かった。北白川宮や朝香宮夫妻などは、ともに欧州旅行を楽しむ仲であった。どうも、東久邇宮だけは、内親王との夫婦生活に満足していなかった。東久邇は「嫁さんとは式場で初対面」と自著『やんちゃ孤独』(1955年、読売文庫)で書いているが、「嫁さん」の顔を知らずに結婚するのは、当時の上流階級としては珍しくない。双方の親が先に決めて、その後に本人たちに伝えるのだ。そのためか、自由な気風を好む稔彦は、この結婚に不満があり、結婚後、皇族軍人として欧州に留学するのだが、妻子を置いてパリに7年もいて、社交界で浮名を流した。帰国したのは大正天皇が亡くなった後で、そのときも皇籍離脱を主張してごねた。もっとも、戦後になって、皇族の離婚が話題になったときも、離婚はしなかった。