現代の国家においても、表面上は近代民主主義を標榜していても、前近代的な色彩を残している国は多く、ある意味では日本もその1つに分類できるだろう。大抵の場合、こうした国々では、有限の富をうまく分配するため、力の強い人が多くの富を得ることができるものの、独占はできないという「しきたり」が出来上がっている。
立場が上にいくに従って得るものが多くなるが、あくまでグラデーション(連続的な変化)にすぎず、相対的な上下関係の連続が全体の秩序をもたしている。明確な社会契約によって、誰かが独裁的な権力を持つよう定められているわけではないという部分が重要だ。
こうしたコミュニティの秩序を維持するためには、全員が自分の「分」をわきまえる必要がある。誰かが「自分だけはもっと富が欲しい」と言い出してしまっては、収拾がつかなくなるからだ。「わきまえろ」というセリフが出てくることの背景には、限りある富を分配しなければならないという経済的な制約条件が存在している。
中世の時代までは欧州も含めて似たような状況だったが、産業が農業から工業にシフトすることで状況が大きく変わった。工業は農業とは異なり、大量生産が可能なので、社会が生み出す富を何倍、何十倍にも拡大できる。
皆が分をわきまえて、ごくわずかな富を奪い合うよりも、それぞれが富を最大限に増やしたほうが合理的であり、これによって資本主義と民主主義が発展してきた。日本も江戸時代までは、農業が主力産業であり、産出できる富は限られていた。当然、「身分をわきまえる」ことが求められており、旧士族には切捨御免という特権まで与えられていた(現実はあまり行使できなかったが……)。
だが、明治以降の近代工業化によって、こうしたしきたりは徐々に薄れ、完全な民主化と高度成長を実現した戦後には、ほとんど消滅していたはずだった。実際、昭和から平成の時代においては、森氏のようなリーダーから、(ホンネはともかく)わきまえろといった発言が出てくることはほとんどなかった。では、なぜ令和の今になって、こうした発言が社会問題になっているのだろうか。
それは日本経済の貧困化と密接に関係している可能性が高い。多くの日本人はあまり意識していないかもしれないが、日本経済は過去20年間ほとんどゼロ成長が続いており、これは経済学的に見るとかなりの異常事態である。実際、同じ期間で先進諸外国はGDPを1.5倍から2倍に拡大させている。
各国には輸出入が存在しており、国民が消費する財の多くは輸入品である。このため、豊かさというのは絶対値ではなく、相対値で決まってしまう。日本が過去20年間でゼロ成長で、他国が1.5倍から2倍の規模になったということは、日本は相対的に半分から3分の2の水準まで貧しくなったことと同じである。
実際、米国では大卒初任給が50万円を超えることは珍しくなく、iPhone(モデルによっては1台10万円もする)を購入する負担はそれほど大きくない。だが日本人の大卒初任給は20万円程度しかなく、iPhoneを買うためには、初任給の半分を費やす必要があり、負担感の違いはあまりにも大きい。
平成末期から令和に入って、「わきまえろ」といった発言が社会問題になっているのは、決して偶然ではない。旧態依然とした体質が残っているところに、経済の貧困化という問題が加わり、それが富の奪い合いをもたらし、秩序を保つため、相対的に立場が低い人に対して、分をわきまえることを強く求めているのだ。
筆者は「豊かになればこうした問題は顕在化しない」と主張したいわけでもなければ、「貧しいので差別発言があってもやむを得ない」と主張したわけでもない。差別的な価値観をなくすため、社会全体として価値観を変えていくことは当然のことだが、問題解決には経済的な視点も重要だと主張したいだけである。