よいたとえではないかもしれないしスケールも異なっていると批判されそうではあるが、わが国の戦国時代を大きく転換させた織田信長を西洋に当てはめるならば、ローマ時代の最高の将軍であり大ローマの礎を築きながらも、暗殺者の刃に倒れたカエサルになぞらえられるかもしれない。
それでは今回のテーマである徳川家康はどうかというと、カエサルの縁者であり、ローマ帝国の初代皇帝、アウグストゥスにどこか似ているようだ。彼はカエサルの後継者となり、時には戦闘で時には政治力によって、対立する実力者たちに打ち勝ち、数百年にわたるパックスロマーナの基礎を築いた。
一方で徳川家康は「海道一の弓取り」と称えられ、数々の合戦の勝者となったことに加えて、巧みな政治的な策謀によって、数百の戦国大名に対する支配体制を確立した人物である。
アウグストゥスとの最も大きな違いは、徳川家による支配では、「血縁」が何よりも重要であった点である。アウグストゥスもみずからの血族による皇位の継承を願ったがかなえられず、その後もローマの皇帝の地位は、血縁関係で相続されることはなかった。
一方で徳川家は、「御三家」という血族の補充システムを作り出し、血縁による支配体制の連続には成功した。が、家康以降の徳川家の将軍には、あまり見るべき人物がいない点は残念なことである。
江戸幕府の創始者である徳川家康は、日本史の中で最も知名度の高い武将のひとりであり、またそれにふさわしい実績を持っている人物である。
けれども一般的には、家康はあまり人気がない。家康は織田信長、豊臣秀吉とともに「戦国三傑」と呼ばれることがあるが、他の2人に比べると地味な存在で、悪役とまではいかないまでも、憎まれ役であることが多い。
たとえば、評論家の八幡和郎氏も、家康には手厳しく、「ひたすらにケチで臆病だが、戦国の世ではそれが貴重だった。徳川家の利権確保だけを目的に日本を長い停滞期に入らせて国益を著しく傷つけた」と評している(八幡和郎『本当は偉くない?歴史人物』ソフトバンク新書)。
その理由のひとつとして、家康は、信長、秀吉が築いた天下統一を横からかすめとったというイメージを持たれていることが挙げられよう。特に、大坂の夏の陣(1615年)で、秀吉の遺児の秀頼とその母である淀君を自害に追い込み豊臣家を滅亡させたことから、無慈悲な悪人のように語られることもある。
さらにさかのぼって 関ヶ原の戦い(1600年)において、多くの豊臣家恩顧の大名たちをあの手この手で篭絡し、裏切り行為に誘いこんでみずからの勝利をもたらしたことについても、腹黒く老獪な陰謀家とみなされることも多い。
しかし家康の生涯を振り返ってみるならば、このような見方はかなり一面的である。
天下人である豊臣秀吉が死去したのは、1598年、それ以降大坂夏の陣が決着を見た1615年までの期間は、まさに「政治家」家康の本領が発揮された時期で、家康の悪賢いともいえる「知恵」によって、徳川幕府の支配体制が日本全国に行き渡っていった。
家康は重臣である本多正信とともに、大名の配置換えを巧みに行い、時には冷酷に取りつぶしをして外様大名の力を削いだ。一方で親藩、譜代の大名を要地に配置し、反乱の目を事前に防ぐ措置を取った。こういった「政治」によって、幕府に逆らう大名は皆無となった。