精神科医が語る徳川家康の「愛着障害」トラウマ連続の前半生、十代後半から戦闘に明け暮れ

嫡男・信康に対する信長からの切腹命令の理不尽さにも耐えた家康

 特に鎌倉時代の歴史書である『吾妻鑑』については、家康が散逸した史料を集めて再編集をしたことが知られている。また『源氏物語』の教授を受けていたことに加えて、中国の古典もよく学んでいた。

 家康の生涯を通して感じられる特徴は、よく指摘されているように、「長い時間にわたって待つことができる」ということと、「感情面での安定さ」である。この点については、血気にはやって衝動的に物事をすすめる傾向の強かった織田信長とは対照的である。

 これまで述べてきたように、家康の人格は複雑であり多面的である。その人格の「強さ」については、成長期や青年期において多くの逆境を乗り越えてきたことと関連しているのかもしれない。

 嫡男・信康による「謀反」が発覚し(謀反自体が事実でないという主張もある)、織田信長によって切腹に追い込まれた際にも、どんなにか辛く理不尽な思いをしたであろうが、家康は騒ぐことがなくこの裁定に従った。

 大坂夏の陣における豊臣家の扱いについて、非難されることが多い家康であるが、総じて家康は、自らに離反したものや、合戦の敗者に対して、寛大であることが多い。

 三河の一向一揆で一揆群に加わった本多正信も後に許して部下に復帰させ、自らの参謀とした。また、関ヶ原の戦いおける西軍の大将であった石田三成についても、その嫡男を処罰することなく許している。

 実は豊臣家も、生き延びる余地は残っていた。家康は豊臣秀頼に大坂城を出て国がえをするように指示をしていたのであったが、豊臣家はこれを拒否した。足利将軍家や織田家の一族が江戸時代を通じて小大名として存続したことを考えるならば、豊臣家もそのようにして生き残るすべはあったのである。政治的な思惑があったにせよ、家康は世の中の人が思っているほど、無慈悲で冷酷ということはないのである。

徳川家康は「愛着障害」といえなくもない……?

 それでは、こうした家康の生涯を精神医学的に検討したら、どう考えられるだろうか。何か病的な兆候は見いだせるのだろうか。それとも、まったくの健常者とするのが正しいのだろうか。

 幼児期、小児期のおける両親との離別やその後の長い人質生活に着目すると、現在の精神科医は、小児に対する病名であるが「愛着障害」(診断基準では「反応性愛着障害」)という診断を持ち出すかもしれない。

 以下に、DSM-5におけるこの「反応性愛着障害」の診断基準を示してみよう。
 
【反応性愛着障害の診断基準】(DSM-5による)

A 以下の両方によって明らかにされる、大人の養育者に対する抑制され情動的に引きこもった行動の一貫した様式
(1)苦痛なときでも、その子どもはめったにまたは最小限にしか安楽を求めない。
(2)苦痛なときでも、その子どもはめったにまたは最小限にしか安楽に反応しない。

B 以下のうち少なくとも2つによって特徴づけられる持続的な対人交流と情動の障害
(1)他者に対する最小限の対人交流と情動の反応
(2)制限された陽性の感情
(3)大人の養育者との威嚇的でない交流の間でも、説明できない明らかないらだたしさ、悲しみ、または恐怖のエピソードがある。

C その子どもは以下のうち少なくとも1つによって示される不十分な養育の極端な様式を経験している。
(1)安楽、刺激、および愛情に対する基本的な情動欲求が養育する大人によって満たされることが持続的に欠落するという形の社会的ネグレクトまたは剥奪
(2)安定したアタッチメント形成の機会を制限することになる、主たる養育者の頻回な変更(例:里親による養育の頻繁な交代)
(3)選択的アタッチメントを形成する機会を極端に制限することになる、普通でない状況における養育(例:養育者に対して子どもの比率が高い施設)