精神科医が語る徳川家康の「愛着障害」トラウマ連続の前半生、十代後半から戦闘に明け暮れ

 しかしこの時期の家康を見て彼の「本質」と判断してしまうのは、公平ではない。

 というのは、豊臣政権の重鎮となるまでは、家康は政治家というよりも、むしろ「武将」として存在を認められていたからである。この点について、多くの人はあまり認識をしていない。

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幕末から明治にかけて活躍した浮世絵画家・歌川豊宣画が明治に入って描いた『尾州桶狭間合戦』。同戦いでの今川義元の討死を機に、家康は今川氏から独立して織田信長と同盟を結んだ。(画像はAmazonより)

織田信長の天下統一を影で支えた家康

 家康は、長い間、織田信長の良き同盟者であった。松永久秀、荒木村重、そして明智光秀と、信長から離反した武将は数多い。これに対して家康は、1560年の桶狭間の戦いの直後から織田家にくみして、1582年の信長の死に至るまでの期間、信長の意向に背くことは一度もなかったし、隠れて別の武将と手を組むこともしていない。

 家康は劣勢な合戦にも進んで参加をし、命の危険にさらされたこともある。朝倉家との戦闘では、浅井勢の裏切りによって背後をつかれて窮地に陥ったが、家康の一隊は、秀吉の軍勢とともに織田軍のしんがりを務め、織田家の窮地を救った。

 織田信長の天下統一の過程においては、豊臣秀吉、明智光秀、柴田勝家といった有能な家臣の活躍が強調されることが多く、実際彼らの貢献には大きなものがあったが、実は織田軍の快進撃を背後から支えたのは、家康とその家臣であり、家康の存在がなければ、信長の覇権の確立は難しかった。

 晩年の家康は老獪で狡猾であったかもしれないが、織田と同盟を結んでいた時期には、「律義者」として評価されていた。さらに前述したように家康は、武将としても能力は高かった。家康は、「海道一の弓取り」と称えられたこともあった。

 ここでいう海道は東海道のことである。弓取りは「弓矢で戦う者」から転じて、国持ち大名のことを指している。 かつては今川義元もこう呼ばれたが、後に東海道を支配した徳川家康もそう呼ばれるようになった。

家康の、複雑な生い立ちと数奇な運命

 徳川家康は、戦国時代という時代背景を考えても、複雑な生い立ちと数奇な、ある意味波乱万丈の人生を送った人物であった。多くの人がイメージしている、「狡猾な狸親父」と、家康の実人生はかなり異なっている。

 家康の少年時代は、両親の庇護も愛も受けることができず、不幸な時期であった。家康は、三河国の土豪、松平家の第8代当主・松平広忠の嫡男として1543年に出生した。母は有力な領主である水野忠政の娘・於大であった。

 松平家は、隣国の大名である今川家の庇護を受けていた。ところが、生母の兄が、今川家と敵対する織田家と同盟したため、広忠は於大を離縁し、家康は3歳で母と生き別れになってしまう。

 その後の家康の運命は、二転三転する。家康は数え6歳で今川氏への人質として駿府へ送られることとなった。しかし、駿府への護送の途中で家臣の裏切りによって、尾張の織田信秀の人質となっている。

 その2年後には、父である広忠が死去した。広忠はまだ20代半ばの若さであったが、これは病死とも、家臣の裏切りによる非業の死ともいわれている。

家康の前半生は、「トラウマ」の連続

 その後家康は、今川家と織田家との人質交換によって、駿府に移された。以後、家康は駿府で生活を続けることとなり、元服後に、今川義元の姪である築山殿を妻として迎えた。

 この築山殿の生んだ嫡子信康が、のちに謀反の疑いをかけられて、織田信長によって切腹に追い込まれることとなる。正室の築山殿も殺害された。家康はこの2人の死を黙認している。

 このように家康の前半生は、現在の言葉でいうならば、いわゆる「トラウマ」の連続であり、戦国時代であることを考えても、過酷な運命に翻弄された人生であった。