今、書店の一角で青く光る棚があるーー。
前編では、こうした青くてキラキラした表紙の書籍群が「ブルーライト文芸」と呼ばれていることを紹介し、そのルーツや話のパターン、日本文学の中での位置付けを見てきた。
ブルーライト文芸は、2016年辺りから登場した、表紙が青くて、いわゆる「エモい」景色が描かれる文芸作品のことである。
表紙的な共通項のほかにも、ストーリー面では、田舎の夏を舞台に、その最後にヒロインが何らかの形で<消失>するものが多く、堀辰雄『風立ちぬ』などのサナトリウム文学との連続性が見受けられる。
そんなブルーライト文芸が現在、中高生を中心に絶大な人気を誇っている。どうしてこれらの作品が中高生に受け入れられるのか?
前編に引き続き、ブルーライト文芸の名付け親であるぺシミ氏(@pessimstkohan)にお話を伺いながら、今回はブルーライト文芸がどうして若い世代に受け入れられているのか、その理由を探る。
まず、ぺシミ氏が指摘するのは、ブルーライト文芸に登場するキャラクターがきわめて現代的であるという側面だ。そこに登場するキャラクターには、ある特徴を持つことが多い。
「男性キャラクターの男性性がそこまで強くないんです。『君の膵臓をたべたい』(住野よる)の影響が大きかったと思うのですが、どこかクールで無気力で、ガツガツしていない。
いうなれば、村上春樹の作品に登場する男性主人公をもう少しマイルドにしたような、そんな特徴があります。中高生向けに加工された村上春樹主人公のような感じです」
ぺシミ氏はこう付け加える。
「また、ブルーライト文芸のタイトルを見ると、タイトルが抽象的です。『君』とか『僕』などの曖昧な人称代名詞を使っていて、匿名性が高いことに気づきます。マンガの領域で『からかい上手の高木さん』をきっかけに「◯◯さん」系の作品が増えたのとは対照的ですね。
タイトルの余白の広さがキャラクターの匿名性にもつながっていて、僕自身、ブルーライト文芸のキャラクターではっきりと名前を覚えているキャラクターってほとんどいないんですよね」
たしかに、ブルーライト文芸に登場するキャラクターはそれぞれ、キャラクターとしての個性が比較的薄く、他の作品のキャラクターと入れ替えることができるのではないかと思わされるぐらいだ。
ブルーライト文芸の特徴の一つが、「ヒロインが<消失する>」ことにあったが、こうしたストーリー展開に比べると、キャラクター造形自体はこだわりが薄いのである。
こうした個性の薄いキャラクターについては、文学が好きな人からすれば「キャラクターを描くことができていない」という批判の対象になりそうだ。
しかし、ぺシミ氏はこうしたキャラクターが生まれた背景には、現代の読者の好みの変化があるのではないかと指摘する。
「ケータイ小説に出てくる女子高生と、ブルーライト文芸に登場する女子高生のキャラクターは個人的にかなり違います。ケータイ小説の主人公のほうが、孤独で人生に対して必死で向き合っている感じがします。
一方、ブルーライト文芸で描かれる女子高生は、SNSや常時接続を前提としてあらゆるコミュニケーションを行っている。ペルソナも多様だし、コミュニケーションの相手も対象も違う。対人関係において、ある意味での“ライトさ”があるように感じます」