そんなもの無意味だろうとは言わないが、「女が描けてない」と口にした大家同様、固定観念に縛られすぎの人間観を解きほぐすほうが先決だろう。
文学賞の選考風景つながりで言えば、思い出すのは町田康氏が繰り返し口にした発言である。それが「根拠なきモテ系小説」という印象的なフレーズ。この作品の主人公は、何をしても注目されるし、どこへ行こうが異性にモテまくるけれど、なぜそうなのかがさっぱりわからない、といった批判である。
主人公である以上、作中でいろんな体験をさせなければならないが、実生活で考えてもわかるように、彼(女)に何らかの魅力がなければ人は集まってくれないものだ。
一人称の主人公に自分をダブらせて、小説内でモテまくるという夢想にふけるのだけはやめたほうがいい――選考会場で町田氏はそう言いたかったはずだ。この作者は独りよがりで自己を客観視することができないらしい、という意味もそこには含まれるだろう。
小説の登場人物のキャラクターには工夫が必要だ、とは百も承知で作者は人物造形に気を配っているはずである。にもかかわらず主人公が注目されるだけの根拠をちゃんと示せと言われるのだから、これは永遠の問題なのだろう。
「女が描けてない」などと他人の小説における女性キャラを云々する資格はもとよりないが、私なら「バカが描けてない」ということを、特に若い書き手たちに申し上げておきたい。
バカを描こうとしていない、と言うべきか。
人生経験が浅いほど、という但し書きがつくのだが、人は自分の目線の高さで小説を紡ぎたがるものだ。書き手自身を主人公に投影しやすいからだろう。そして、ここが肝心なのだが、その目線の高さとは、世間の知的水準より少しだけ高いものと設定されるのが通例である。
一般人より少しだけ優れた知性と感性を持った視点人物であれば、周囲の世界と正面からクラッシュしたりしないし、逆にごく短時間にすべてを理解できたりもしないので、小説展開上、まことに都合がいいのだ。
だが、それでは決してリアルな作品は描けないはずだ。知性や感性や行動力において平均点以下の人間がこの世の人口の半数だけ存在しているのだから。
ジョン・スタインベックの『ハツカネズミと人間』は、バカを描き切ることで最高度の感動をもたらす傑作だ。副主人公のレニーは、知性において著しく劣るが、肉体労働においては二人分の働きを見せる男である。
この男の口から出る言葉は、やたらに繰り返しが多く、語彙もすこぶる少ない。だのにスタインベックの手にかかると、その台詞は、ある時には呪術めいて聞こえ、またある時には悲しみに満ちて読者の心を揺さぶるのだ。
日本において努めてバカな人間を描こうとしている作家というと、コメディータッチのものを除けば、馳星周氏と戸梶圭太氏、そして月村了衛氏くらいのものだろう。
映画化された『溺れる魚』の著者・戸梶氏は、バカを魅力的に描いたサスペンスで知られており、直木賞作家・馳氏は、知性の低そうなメインキャラクターたちの虚ろさを、短いセンテンスを重ねることで、いっそ感動的に表現している。
月村氏の『欺す衆生』の場合は、自覚のない天才詐欺師と、低劣なその仲間グループを、意図的な「ボキャ貧」の枠内で描写することに注力し、かつ成功している。こうした例外的作品に、日本人はもっと学ぶべきではないか。
キャラクター小説の書き方指南書では、いくつもの項目にわたって主要登場人物の属性を細かく設定しておくよう指導がなされている。その属性がマニエリスムそのものだという点以外、この方針に異論はないが、これが不動のものであり、作品の最後まで同じということになると首を傾げざるをえない。