その昔、と言っても四半世紀前の20世紀末までの話である。文学賞の選考会では必ずと言っていいほど、「女が描けてない」と評されて落選の憂き目を見るケースが絶えなかった。私の担当作家でいえば、山口瞳氏などが直木賞選考会で使った表現である。
山口氏は、市井の女性や、当時の言葉でいう「職業婦人」を描くことに長けた作家だから例外だが、このほかの大家たちがどれだけ世の女性たちの実態を知っているか、怪しいものだと当時から私は思っていた。何故なら、こうした大家と言われる男性作家たちがよく知っている女性って、水商売の人たちばかりだからである。
ところが、大家の文学賞選考委員たちに女性の描写の不備を指摘された作家たちが、「そういうあんたたちが描いてきた女性ってネオン街限定だよな」と反抗した例も聞かない。それどころか先を争って酒場に足を運び女性の研究に励んだのではなかったか。
ごく最近の話だが、『男流文学論』という知る人ぞ知る鼎談本が復刊されて話題を呼んだ。富岡多惠子、小倉千加子、上野千鶴子の三氏が超大物男性作家の作品を取り上げ、作中の女性像を、男性優位社会に育まれた小児病的な人物造形の結果であると断定する痛快きわまりない本である。
「女性のことなら俺に任せろ」風な吉行淳之介のような作家こそがやり玉にあげられている点に三氏の心意気を感じる。
この本が単行本で出版された20世紀末は、女性作家の活躍が目立つようになった時期ではあるが、文学賞の選考委員の半分以上が女性作家という現在の状況にはほど遠かった。大家の男性作家の描く女性像をコテンパンにやっつけることができない小説界も、寿命という定めには勝てず、代わって女性作家たちの描く女性像がはびこるようになった。
この急激な変化のなかで私は、新たな疑問を抱くようになる。女性による女性像だから正しいということにはならないんじゃないか、と考えるようになったのだ。もっと言えば、女性作家たちの描く男性像もまた、奇妙に画一的になってきたような気さえするのである。いつの日にか男性作家たちによる『女流文学論』が刊行されるのを待ちたいものだ。
さて、このように小説に登場する男性女性のキャラクターは、時代を反映してかつねに揺らぎ続けているらしい。小説の書き方本では、主要登場人物のキャラの描き分けの必要性から、細かく何項目にも分かれた属性の表づくりを勧めている。