一方で、動物の脳を研究する際の利点としては、ある処置をしたのちに生じる脳の変化を、顕微鏡のレベルで即座に観察できる点にあります。
実験をする上では、なるべく条件を簡略化し、その因果関係を調べる必要があります。ヒトの脳も、死後検体として提供され研究に用いられることもありますが、生活習慣や罹患病歴が異なり、もしかするとさまざまな疾患に複合的に罹患していたかもしれません。遺伝子が関連する病気ですと、親や子を含む家族の病歴まで考慮に入れて調査するのは非常な労力となります。
その点、実験用に飼育されているいわゆる実験動物は、どのような遺伝子を持った親から生まれてきたかがしっかりと管理されており、栄養や睡眠、あらゆる生活習慣が、個体間で均質になっていることが保証されています。したがって、ある実験操作をした直後に、脳を取り出して調べれば、そのときに観測された変化は、その実験操作の影響のみによると仮定できます。
脳組織を傷つけないように髄膜を除去し、脳を摘出した後に、ホルムアルデヒドという薬品に一時的に漬け置きします。生体標本などを保管しておくホルマリンもこの薬品の溶液です。この薬品は、なるべく脳細胞の構造を維持しつつ、脳組織の腐敗を防ぐ効果があります。このような行程を「固定」と言います。これにより、その瞬間の脳の状況がありのまま保存されるのです。
細胞は通常目に見えませんので、染色と呼ばれる行程を経て、目に見える形になります。脳組織を薄く切り出し、染色して顕微鏡で観測することができます。あるいは、細胞の上で働いている受容体などのタンパク質がどのように変化を受けたかを見ることができます。これを実験操作を加えなかった個体の脳と比較することで、実験操作が脳細胞にどういう影響を及ぼしたかを類推することができます。
動物実験と書きましたが、どんな動物の脳を利用するかが問題となります。もちろんヒトと類似している霊長類の脳を利用できればグッと理解が深まるとは思いますが、ヒトに近い分、研究倫理の審査が厳しく、また飼育や取り扱いも難しくなります。
一方で、昆虫などの無脊椎動物や、魚類などの比較的取り扱いが容易な実験動物もヒトと同様の基礎原理を持った脳を持つため、研究にもよく利用されます。どのような生体現象を解き明かしたいかによって、どういった種類の動物を利用するかを慎重に検討する必要があります。
ちなみに、動物の一種という枠組みで人間のことを指す場合はカタカナでヒトと書くのが通例となっているようですので、本書でもそのように使い分けたいと思います。
研究を行うには、予算と期間の問題が避けては通れません。限られた予算の中で、効率よく研究計画を遂行していくためには、実験動物の飼育にかかる労力が少なく、成長や繁殖のスピードが速いものが好まれます。また、近年では、遺伝子を操作することで病気のモデルを作製したり、特定の遺伝子の関与を調べたりするという性質の実験も行われるため、遺伝子の操作のしやすさや方法論の多様性が重要になります。
その点では、ヒトと同じ哺乳動物であるマウスや、無脊椎動物を代表してショウジョウバエ(果物に集まってくる小さなハエ)が採用されます。また、体が透明で観測が容易に行えることから、コイや金魚の仲間のゼブラフィッシュも利用されます。その他にも、いかにユニークな動物で実験をするかが評価になるような学問分野もあり、生物学の研究は実に奥が深いと思い知らされます。
さて、哺乳類に話を限定して、脳を比較して見てみましょう。哺乳類とは、人間と同様、 お母さんのお腹(子宮)の中で育ち、生後はお乳を飲んで成長するタイプの生物です。