「子供が自転車に乗るときは、ヘルメットをかぶらなければならない」という注意事項が守られているかどうかを監視するには、自転車に乗っている子供(つまり〈P〉)がヘルメットをかぶっているか、またヘルメットをかぶっていない子供(つまり〈Qでない〉)が自転車に乗ってしまわないかを監視すればいいのだが、これは誰もがいわれなくてもわかっている。
ところで、条件規則の違反が不正や危険に等しいときなら、そのルール違反を見つけられる思考力というのは、必ずしも論理的思考力とはいえない。論理とは本質的には思考の形式であって、内容ではない。PとQが何を表しているかではなく、PとQがIF‐THEN(ならば)、AND(かつ)、OR(または)、NOT(でない)、SOME(いくつかの)、ALL(すべての)などによってどういう関係に置かれているかを問題とするものだ。
論理は人類が獲得した最高の知識の一つであり、これを使えば、あまりなじみのない抽象的な主題でも(法律や科学など)推論を働かせることができるし、シリコンに実装すれば、自ら動くことのない物質を思考機械に変えることもできる。論理には汎用性があり、内容に左右されない。
論理は「『PならばQ』は『〈〈P〉かつ〈Qでない〉〉ではない』と等価である」といった形式であり、PとQに何を入れても成立する。これに対して、論理の手ほどきを受けていない人間の脳が起動するツールは、汎用性がなく、内容に左右される。問題の内容(問題に固有のもの)とルール(ツールを動かすためのもの)を一つにして処理するように特化したツールである。そこからルールだけを切り出して、別の問題や抽象的な問題、無意味に見えるような問題に応用することは、人間には難しい。
だからこそ人間は、教育その他の合理性強化のための制度を作り上げてきた。そうした制度は、わたしたちが生まれもち、ともに育ってきた生態学的合理性(いわゆる常識や生きるための知恵といったもの)を、より視野の広い、より強力な推論ツール(過去数千年にわたって優れた思想家たちが磨きをかけてきたもの)で補強する役割を担っている。