1995年はWindows95の発売された年で、世界的にネットの利用人口が増えた年として、多くの人に記憶されている。だが、千葉大学工学部の1年生だった森永氏のネットとの関わりはそれよりももう少し早かった。
「Windows95の発売は12月なのですが、私が大学生になった1995年4月の段階で、大学生が全学的にネットを自由に使える環境が用意されていたのは、千葉大と慶応のSFCでした。
当時の千葉大には少しマニアックな先生がいて、スーパーコンピューターで環境を作っていたので、全学必修の授業で全員UNIXを使わなきゃいけなかったんですね。今思えば、文系学部の学生には地獄みたいな環境だったかもしれません(笑)。
そんななか、私は同じ工学部の、ガチでプログラマーを目指している情報系の学生たちと仲良くなるうちに、次第にネットに関心を持つようになっていったんです。ちなみに、SFCは千葉大と違ってMacを使っていて、『オシャレだなあ』と思っていたのを記憶しています(笑)」
その後、森永氏は学生バイトとして、コンピューター関連の雑誌制作などを手がけていた『アスキー』での仕事も経験。インターネットに関わる仕事につくことを、真剣に考えるようになっていくことになる。
だが当時、インターネット関係の就職先は「ヤフーやアスキーといった当時できたばかりのベンチャーか、NTTのような通信系の会社、もしくはNEC、IBM、富士通といったBtoB系のシステム会社くらい」で、まだまだ選択肢は限られていたという。
結果的に、森永氏は新卒でNTTに入社。2000年代に入るとさまざまな会社で1人1台のパソコンが与えられることが普通になり、ビジネスの世界でインターネットに参入する企業も増加していき、インターネット人材の採用も本格化。それを背景に、現在の会社に転職したのが2001年のことだった。
「27歳以上で社歴5年以上の求人が多いなかで、当時24歳の私が応募条件をクリアできていたのが博報堂と警視庁のサイバー犯罪対策系の人員募集でした。もともと生活者やネットユーザーに近い仕事がしたいと考えていたこともあり、先に博報堂で採用が決まったので、そのまま転職したという感じですね」
そうしてネット業界で20余年を過ごした森永氏。
テレビや雑誌、新聞広告が強かった時代から、デジタルマーケティングの存在価値が高まり、メディアプランニングの世界でマスとデジタルが同じ土俵で語られるようになった昨今だが、現場で生まれた新たな混乱も目撃してきた。その代表例が「ブランディング広告」を巡る、解釈の齟齬だ。