多くの人が勘違いしている「生きづらさ」の真実

生きづらさや苦しさを感じている人たちに向けた、生きるためのテクニックとは(写真:zak/PIXTA)
職場や周りの環境が変わったり、新たな生活が始まるという人も多い季節。心機一転、前向きに頑張ろう、新しい一歩を踏み出そうと気持ちを新たにする人もいれば、さまざまな変化をしんどく感じたり、心が重たくなってしまう人もいるのではないでしょうか。
福井県永平寺で僧侶として20年近くを過ごした後、現在は青森県恐山の院代(住職代理)を務める南直哉氏は、生きづらさや苦しさを感じている人たちの話を聞く中で、仏教の考え方がさまざまな問題の解決の糸口、生きるためのテクニックとなるのだということに気がついたと言います。
南氏の最新刊『「前向きに生きる」ことに疲れたら読む本』より一部抜粋・再構成してお届けします。

「自分を大切にする」ことをやめる

人生相談に来られる方々とお話ししていると、ほとんどの方がある勘違いをしていることがわかります。

それは、「自分」という存在がちゃんとあり、その自分を大切にしなければならないと思っていることです。それで、「大切な自分」の人生を充実させなければと考え、思いどおりにいかない日常や人間関係に苛立ち、「私の人生は、もっとよくなるはず」と焦っている。そういう方が多いのです。

「いや、”自分”がいるのは当たり前じゃないか」「自分を大事にするのは当然だろう」と、あなたは思うでしょう。しかし、その「自分」とはなんでしょうか? 「体」かというと、そうではありません。体の細胞は、3カ月もすればすべて入れ替わります。そうすると、それはもう「別人」です。

では、「心」が自分かといえば、これもまた証明できる話ではありません。「”昨日の心”と”今日の心”が同じだと言える根拠は?」と尋ねられると、答えに詰まるはずです。

そもそも、「昨日の自分」と「今日の自分」が同じだと言える根拠は、2つしかありません。それは、自分自身の「記憶」と「他人からの承認」だけです。

たとえば明日の朝起きて、もし今までの記憶がすべてなくなっていたとしたら、どうでしょう。今あなたが思っている「私」は、そこに存在しないはずです。あるいは、明日まわりの人間がすべて、あなたのことを別人のAさんだと言い出したら、どうしますか? あなたはAさんとして生きるか、精神を病むか、自死するしかなくなるはずです。

「私」とは何か

大げさな話ではありません。そのくらい「自分」とは、もろいものです。
私は「私」であるという記憶。そして、他者から「私」だと認めてもらうこと。この2つのどちらか、あるいは両方を失ってしまったら、自分であることの根拠は消え、「私」はその場で崩れてしまいます。

ふだん、あなたが「私」と呼んでいるものは、突き詰めれば、「記憶」や「人とのかかわり」で成り立っている存在にすぎないのです。その大した根拠もなく存在する不確かな「私」を大切にするとは、何をしたいと言っているのだろうと私は思うのです。

「でも、自分はここにいるじゃないか!」と言う人に、「その”自分”とはなんですか?」と尋ねると、名前や性別、年齢、性格、職業、家族、住所などについて話し始めます。しかしそれは、その人が「その時点」で持っている属性にすぎません。それらをすべて取り払ってしまったら、何が残るのかということです。

人の存在は、誰もが生まれた瞬間に「他人に着せられた服」をそのまま着続けているようなものです。生まれる日も、場所も、性別も、体の特徴も、自分で選んだわけではありません。名前も、親に決められました。その親すら、たまたま「親」になっただけです。そもそも、自分から「この世に生まれたい」と希望して生まれてきたわけでもありません。