多くの人が勘違いしている「生きづらさ」の真実

もし仮に、自分で望んで生まれたのであれば、生まれる日も、場所も、親も、自分で思いどおりに決められ、「望んだとおりの自分」になっているはずです。でも、「私は、何もかも望みどおりの自分だ」と言える人がいるでしょうか。

人はこの世に「たまたま」生まれ、他人から「自分」にさせられたのです。その「自分」を受け入れるためには、人から認められ、ほめられなければなりません。自分ではなく人が選んだ服を着ているのですから、誰かから「似合うね」「いいね」と言われて初めて安心でき、その服を着る気になれます。

それで人間の最大の欲求は、自分を「自分」にしてくれた存在、つまり”
他人から承認されたい”ということなのです。

むりやり「自分」にさせられた自分と折り合いをつけ、苦しさに「立ち向かう」のではなく、その状況を調整し、やり過ごして生きていく。そういう生き方もあると思います。

「なりたい自分」になれなくたっていい

「なりたい自分になる」という言葉があります。「今の自分」ではなく、憧れの自分になれば、幸せに生きられる。だから努力して、自分を「なりたい」と思う自分に変えていく。そういう生き方です。

私は、このやり方には、無理があると思っています。さきほどお話ししたように、人は自分自身の「記憶」と他人の「承認」によって規定されている作り物にすぎません。「なりたい自分」の「自分」とは何かすら、はっきりわかっていないのです。

最近よく耳にする「本当の自分になる」「ありのままの自分になる」という考え方も、ありえません。「本当の自分」「ありのままの自分」とは、一見、なんのとらわれもなく心のままに生きられる、ひとつの理想像のように思えるかもしれません。しかし、誰が、何を基準に、その自分が「本当」で「ありのまま」だと判定するのでしょうか。私には、それがよくわからないのです。

結局は、「本当の自分」「ありのままの自分」になるために、あるいは「なりたい自分」になるために、記憶と「他人の承認」の中をさまよいながら、「自分は、これでいいのだろうか」と葛藤しているだけになるでしょう。

「今の自分を好きになれないので、本当の自分を見つけたいのです」と訴える方がいますが、自分というものに対して居心地の悪さを感じるのは、当然です。

私たちは生まれたいように生まれたわけではなく、気がついたらそのように生まれついていただけです。いわば他人に仕立てられた、お仕着せの「自分」でしょう。最初から寸法が合うはずもなく、無理をしながら「自分」をやっているのですから。

もちろん、それでも楽しく生きている人はいます。そうやって生きられる人たちはよかったね、と思えばいいだけの話です。夢や希望や「理想の自分になる」といった物語に乗れるのなら、それでなんの問題もありません。しかし、もしそこに違和感があるのであれば、むりやりその生き方に合わせるのは、新たな苦しみを生むだけです。

「充実した毎日を送りたい」

「人生をもっと有意義に過ごしたいのです」 

そうおっしゃる方たちが、「意味のある人生」を送りたいと思う気持ちはわかります。しかし、そう考えて苦しくなっているのなら、その「充実した人生を送る」「自己実現して生きる」といった物語からは、降りてもいいのです。

今見ていると、どんな人も非常に力が入っています。「よりよい人生を生きなければならない」と思い込み、「人に勝たねばいけない」と焦っている。

「得をしたい」「ほめられたい」という欲もある。だから力んで、仕事に、余暇の充実にとがんばってしまう。スケジュール帳がびっしり埋まっていないと不安になってしまう。さぞ苦しいだろうから、力を抜いて「大したことのない自分」を生きればいいのにと思います。