「ロシアを信じるな」ロシア通の日本人が断じる訳

ロシアによるウクライナ侵攻に対する抗議デモが世界各地に広がっている。イタリアではロシアのプーチン大統領の絵をプラカードに掲げて行進する人々の姿も(2月26日、写真:Alessia Pierdomenico/Bloomberg)

ロシアのプーチン大統領は2月25日、国家安全保障会議でウクライナ軍兵士に向け、ウクライナの現政権を倒すよう激しく呼びかけた。ところが彼はその数時間前、中国の習近平国家主席との電話会談において、「ウクライナとハイレベル協議を行うことを希望している」と“停戦”を視野に入れているかのような発言をしてもいる。

一般的な尺度で捉えればおかしな話だが、そもそもプーチン氏のこうした発言を真に受ける人は現実的に少ないのではなかろうか。事実、私の心のなかにも「どうせまたうそだろ」というような思いがある。

だが『ロシアを決して信じるな』(新潮新書)の著者、中村逸郎氏によると、「うそにうそを重ねるのがロシア流」らしい。中村氏は筑波大学人文社会系教授。40年にわたり、ロシア(ソ連)の各地を訪ねてきたという人物である。1980年8月に3週間、モスクワとレニングラード(現サンクトペテルブルク)に滞在したのを皮切りとして、渡航回数は100回以上。4年間のモスクワ留学も経験しているという。

その経験のなかには、日本人の感覚からすると理解に苦しむようなことも少なくなかったという。つまり本書はそうした実体験に基づいた、机上の空論とは異なるロシア論になっているわけである。

人間を追い詰めることで運命を試す

ロシアという国は、人間を追い詰めることで、精神力、もっといえばその人の運命を試すようなところがある。だれがそのような試練をあたえるのか。もちろん答えは不明なのだが、不思議ななにかが迫ってくるように思う。
もはや、日本で勉強してきた知識や論理はなんの役にも立たないどころか、問題解決にあたっては障害になるだけだ。無駄ではないが、ロシアではそれらを主張したり、自分の判断基準にしたりすると不幸になってしまう。(40ページより)

本書が刊行されたのは2021年2月、つまりちょうど1年前なのだが、この記述はまさに、いま起きていることそのままではないだろうか?

なお、ロシア人の持つそうした不可解さは「うそをつく」ことにもあてはまるようで、たしかにそう考えると冒頭で触れたプーチン氏の話の信憑性のなさにも納得できる。端的にいえば、ロシア人にとってうそをつくのは当然のことだというのだ。

「相手を信じやすく、騙されやすい人は、すぐにロシア人の格好の的となり、騙されてしまう。このタイプの人間には、嘘の約束をするのが一番だ。逆に、頑なに相手の要求を拒否する人よりもずっと扱いやすい。だって嘘だとわかっても、相手は『そんなはずはない。なにかの誤解でしょう』と勝手に信じ込んでくれるからね。だから、ロシア人はどんどん嘘の約束を重ねていけばいいだけのこと。実際には何も実行しなくてすむし、失うものはないので、こんな楽な相手はいない」(72ページより)

これは、中村氏の友人である元ソ連共産党地区委員会幹部の発言だ。2019年2月7日、モスクワ・クレムリンで食事をしながら北方領土交渉の行方について話しているときに発せられたものだという。だとすれば、日本はソ連、ロシアにだまされ続けているということになる。

しかし、それはさておいても、もしこれが本当にロシア人の国民性の1つであるならば、今回のウクライナ情勢が少しだけ理解しやすくなるような気もする。

「約束」をめぐるトラブル

わたしがロシア人同士の会話でよく耳にするのは、約束を守らなかったことをめぐるモメ事である。時々というよりも、「とても頻繁」に聞く。人間関係に亀裂が走り、罵り合う場面も、なんども目撃している。
だがわたしは昔から、約束を交わすときのロシア人の大げさな表現が気になっていた。
「わたしは約束を、厳粛に守ることを誓います」
このことばを聞く限り、忠実に決め事を実行してくれるものと信じてしまう。少し違和感を抱きながら、「こんなに大げさにいってくれなくてもよいのに」と感じることがあった。
いまから考えると、一瞬、誠実さが伝わるかのような言葉だからこそ、相手を信用してはいけないということなのだろうか。(166ページより)