簾や屏風によって細かく細分化された物語や日記の空間と違って、『今昔物語集』が見せてくれる光景は無限に広がり、いつまでも尽きない。それは本作の最大の特徴であると同時に、最大の魅力であるとも言える。
いわゆる因果応報譚や仏教関連の説話も多く含まれているけれど、ユーモアに富んだ小話や背筋の凍る怪談や切ないラブストリーなど、『今昔物語集』のページの中にはありとあらゆる人間像が生き生きと描き込まれていて、その数々の登場人物たちは3カ国を舞台に目覚ましく飛躍する。私のような文学オタクであれば、その全世界を眺望する誘いをどう断ることができようか。
『源氏物語』に比べると知名度も愛好家人口も少し落ちるものの、やはり『今昔物語集』は今もなおそれなりのファン層を誇る。そして、その「野生の美しさに充ち満ちている」超大作に魅了された読者には、芥川龍之介先生のようなVIPもいらっしゃるではないか!
芥川は『今昔物語集』をはじめ、古典文学に出典をあおいだ十数編の短編小説を世に送り出しているが、それらの作品に触れることによって、平安vs近代の読み比べを楽しみながら、実に胸躍る文学的テイスティングを堪能できる。たとえば、文豪の学生時代の産物である『羅生門』。
『今昔物語集』の出だしはこんな感じだ。
女流文学の代表的な作品とまるで正反対の雰囲気が醸し出されている。死体置き場と化した都の城南の正門を舞台に、最初に出てくるのは、悪事を働こうと決心した男だ。周りには人通りが激しく、やかましい。「もののあはれ」の世界はどこへ消えてしまったのだろうかという感じである。
さて、芥川先生バージョンと比べてみよう。
ストーリーは同じ場所を背景に動き出すが、出典からは感じとれないメランコニックな空気が漂い、その中からある「下人」の姿がぽつりと現れる。彼は、盗みをするか餓死するかと思い悩み、窮地に追い込まれている。周り一面は静まり返っており、男の頭の中にさまざまな思いが浮かんでは消えている音までが聞こえるほどだ。
どちらの主人公も門の2階に上がって、放置されていた死体の中に小さな明かりを灯して、蹲っている怪しげな老婆に出くわす。悪寒が走るような地獄絵図だ。
『今昔物語集』の老婆は女性の死体の頭の近くに座り、その髪の毛を乱暴に抜き取っている。男にその変わった行動の理由を尋ねられると、老婆はすぐに手を合わせて命乞いする。死んだ女性はかつての主人、彼女の髪を使って鬘を作りたいという。