芥川龍之介が描いた「超ダークな平安時代」の迫力

その一方で、『羅生門』の老婆は赤の他人、詐欺まがいの商売をしていたらしい女の髪の毛を1本ずつ、丁寧に引っこ抜いている。そして、その理由を聞かれるや否や、自分の行動を正当化しようとして捲したてる。わずかな違いだが、なんとなく芥川の老婆の方が悪質という印象を受ける。

さて、究極の選択だ。悪の道に踏み込んで少しでも生き延びるか、それとも餓死を選ぶか。

それぞれの「下人」はどう振る舞うのか

『今昔物語集』の主人公は、盗みを謀るというはっきりとした目的を持って都を訪れている。せっかくの機会を逃すまいと、彼は微塵の躊躇いもなく、それを素早く実行してみせる。

〔…〕盗人、死人の着たる衣と嫗の着たる衣と、抜き取りてある髪とを奪ひ取りて、下り走りて逃げて去にけり。
【イザ流圧倒的訳】
盗人は、死体の着物と老婆の着物を剥ぎ取り、抜き取ってある髪の毛も奪い取ると、階段を駆け下りて逃げ去っていく。

老婆の言葉を無視して、男は取れるものを全部奪い、暗闇の中に消えていく。盗まれた品は淡々と羅列されるだけだが、それがかえって出来事のスピードを感じさせ、臨場感溢れる文章になっている。死体が転がっている中で裸にされた挙句に、1人残された老婆のことを考える暇もなく、私たちの視線は走り出す男の後ろ姿を追いかけるのに気を取られてしまう。

では、芥川の下人の方はどう振る舞うのだろうか。

下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅に五歩を数えるばかりである。下人は、剥ぎとった檜皮色の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。
しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。そうして、そこから、短い白髪を倒にして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。
下人の行方は、誰も知らない。

顛末は出典とほぼ同じ。死ぬか盗むかという二者択一に迫られて、下人は生き延びることを選ぶ。老婆の言い訳に背中を押されたかのように、わずかに残っていた良心が消え失せる。しかし、ふとした瞬間、下人の盗品が気になる。

少しでも金になりそうなものを手当たり次第に奪い取る『今昔物語集』の泥棒と異なり、下人は老婆の薄汚い着物だけ剥ぎ取って逃げる。本物の盗人だったら、できる限り多くの品を持ち去るはずだが、彼は何の足しにもならなそうな使い古した着物だけに思いとどまる。『今昔物語集』の男と違う「盗人」になるわけだ。

物語に新しい命を吹き込んだ芥川版

目の前に開いている2冊の本を行き来しつつ、なるほど!と納得する。

芥川先生は古典の小話の骨格をほとんど変えていない。出来事の順番も、登場人物も、結末も出典に沿っているが、それを再現するとともに、描かれている内容に一歩深く踏み込んでいくのだ。

「今昔物語鑑賞」という文章の中で、芥川本人は、自らの執筆動機を次のように説明している。

「尤も『今昔物語』の中の人物は、あらゆる傳説の中の人物のやうに複雜な心理の持ち主ではない。彼等の心理は陰影に乏しい原色ばかり並べてゐる。しかし今日の僕等の心理にも如何に彼等の心理の中に響き合ふ色を持つてゐるであらう。」

芥川は緻密な職人のように、はっきりとした原色に透明感、立体感、奥行きや強弱をつけて、すでに存在している物語の中に新しい命を吹き込む。1つひとつの違いを吟味していくと、それぞれの世界観がより鮮やかに浮かび上がり、その奥底に隠れていた意外なものが表に現れる。

ワインなどのテイスティングをする際に、好きなお酒のタイプがわからない人は、まずいろいろな人気銘柄を飲み比べて、自分の好みに合う味や香りの傾向をつかむといいらしい。そして、辛口や甘口、キレやふくらみの無数のグラデーションなど、さまざまな特徴がわかってきたら、それを手掛かりにしてコントラストを楽しめるようになるそうだ。

文学も同じような「飲み方」をすれば、ワンランク上の大人の嗜みを身につけられるかもしれない。一度にたくさんの文字量に目を通すというより、チビチビと口に含むように味わう。そこにはきっと新たな出会いと不思議な発見が待っているはずだ。