「将来的に正社員になれる」
という約束で雇ってもらえた。
だが「即戦力にならない」という理由で、試用期間半年で首になった。しかも会社の都合で解雇したとなると、問題があるため
「自分の都合で辞めたってことにしてくれ」
と言われた。
吉田さんは強く憤りながらも、了承するしかなかった。
「その出版社に対しては、いまだに遺恨を抱いています」
その後、生活にはさらに大きな転機が起こった。
■自殺を考える日々から怪談に魅了されるように
結局、高尾の実家に引っ込むことになる。
「毎日毎日、自殺を考える日々が続きました。このときがまさに人生のどん底でした」
そんな2005年、吉田さんはたまたま、稲川淳二さんの怪談ライブのチケットを2枚手に入れた。高校時代からの友人である、今仁英輔さんを誘って2人で観に行った。
そして2人とも、稲川淳二さんの怪談に魅了された。
「終わってすぐに
『実話怪談すごいな!! 実話怪談やりたいな!! 実話怪談やろうぜ!!』
という話になりました」
吉田さんはこの日、
「実話怪談は自分の一生のテーマになる」
と直感したという。
実話怪談って
『人が不幸の中で亡くなり、その死のせいでさらに多くの人が不幸になる話』
みたいな暗い話がほとんどです。
とにかく、当時の私は人生のどん底にいました。そんな絶望の淵にいたからこそ、私は実話怪談というコンテンツに引き寄せられたんだと思います」
ただ運命は感じたものの、すぐに仕事になると思ったわけではなかった。とにかく、みんなで実話怪談を話したかった。
そこで吉田さんは「とうもろこしの会」という怪談サークルを立ち上げた。中野区などで居酒屋を借りてそこを会場にした。
当時はやっていたSNSのミクシィ(mixi)で呼びかけて集った人たちや、今仁さんがやっていたバンド関係の知り合いなど、ほとんど初対面な面々が15人くらい集まりひたすら実話怪談を話して、そして聞いた。
「当時は今ほど実話怪談が認知されていなかったので、実話怪談ファンは飢えていました。『こんなにも怪談好きっているんだ!!』
と驚くくらい、スムーズに多くの人が集まりました」
当時、吉田さんは婦人画報社の編集部でアルバイトをしていた。編集者に頼まれて出版デザイナーの事務所に行ったり、原稿を運んだり、都内を移動する機会が多かった。
「東京都内の用事はひたすら歩いて移動しました。歩くのが好きだし、速いんです。それで交通費を浮かせることもできました(笑)」
歩いていると、都内の坂や暗渠の場所を把握できた。神社や祠などいわくつきの場所にもずいぶん詳しくなった。その情報を自分のネットラジオで話したりもした。
「東京都心の土地にまつわる実話怪談は、現在の私のメインの仕事になっています。アルバイト時代に歩き回った経験が生かされてますね」
ちょうど、怪談業界も若手を求めていた。吉田さんはうまく時流に乗ることができた。
少しずつ実話怪談が仕事になっていった。
まだ経験はなかったが、竹書房の実話怪談アンソロジーの単行本に、作品を1本載せることができた。載ったことによる反響はほとんどなかったが、実話怪談業界の知り合いが増えた。
「今よりずっと知名度の低い業界だったので、『お互い草の根で頑張ろう!!』と励まし合いました」
ミリオン出版の雑誌(『BLACKザ・タブー』『不思議ナックルズ』など)では、編集者と現地に行って地元の人に話を聞いて記事にした。
「『実話誌って本当に取材をしてるんだ!!』と驚きました。取材して記事を作るノウハウを覚えることができました」
ロフトプラスワンなどのトークライブハウスでは、実話怪談イベントを定期的に開催するようになった。