40歳「実話怪談」をメジャーにした男の大逆転人生

映画研究部では、現在も吉田さんと一緒に怪談活動をしている今仁英輔さんと出会った。

『人のセックスを笑うな』などの監督作品で知られる井口奈己さんの自主制作映画『犬猫』の製作を手伝った。

「『犬猫』のスタッフの人たちはプロの方たちも多く大変勉強になりました。その映画は早稲田の映画サークルの人たちも手伝っていました。彼らと仲良くなり、私も早稲田大学に進学したいと思うようになりました」

演劇と映画にとくに興味があった高校時代。映画製作の手伝いを通じて早稲田大学に進学したいと思うように

進学したいと思ったとき、すでに高校3年生の夏だった。

このまま在学すれば、自動的に中央大学に進学できる。一方で、もしも早稲田大学を入試した場合、中央大学へ自動で進学はできなくなってしまう。

「入試科目が、英語、国語、小論文だけで、完全に得意分野なので、なんとか行けるだろうと思いました。私以外には誰も入試をしなかったので、出版社が高校に置いていった参考書をすべてもらえることができました。それはラッキーでしたね」

そして吉田さんは見事に合格し、早稲田大学文学部の演劇映像学科に進学した。

映画サークルに入りドキュメント映画を制作

入学後はもちろん映画サークルに入った。

「劇映画(フィクション映画)は自分には作れないという自覚があったので、ドキュメンタリー映画を作ることにしました」

吉田さんには子供の頃から入り浸っている映画館があった。塾を経営するおじさんが個人的に開いている映画館だった。

レンタルビデオショップで借りてきた映画をスクリーンで流すという一風変わったスタイルだった。吉田さんは、その映画館の手伝いをしたこともあったし、大学入学後は塾の講師としてアルバイトしたこともあった。

そのおじさんが映画館の活動をやめると聞き、その顛末を追いかけたドキュメント作品を制作することにした。

「すごい真面目な内容です。当時はオカルトとか馬鹿にしてましたから(笑)。いまだに、将来は大学院に行くか、シンクタンクに行くか、という夢を持っていました」

しかし19歳の終わりの頃、とある事情により吉田さんは圧倒的に経済的に厳しい状況になってしまった。

「遊びはもちろん、勉強をする時間もなくなりました。とにかく卒業するため最低限学校に通う以外は、ずっとアルバイトをするしかなくなりました」

当時の吉田さんのメインの収入は高田馬場の個人経営の居酒屋でのアルバイトだった。早稲田大学の学生がよく来るお店で、吉田さんが所属する映画サークル御用達のお店でもあった。

そのほかにも高速道路のトンネルの換気点検の仕事や、塾の講義をビデオ撮影する仕事など、とにかく毎日働いた。

「1年で360日は働いていました。それでもめちゃくちゃ貧乏でした。忙しすぎてみるみるやせていきました。新聞を読んだりする時間もないので、社会情勢もいっさいわからなくなりました。本当はダラダラと大学に何年もいるつもりだったのですが、どうしても4年で卒業しなければなりませんでした。いっそ早く就職したいと思いましたが、それも厳しかったです」

吉田さんが大学4年生のときは、深刻な就職氷河期だった。吉田さんと同じ学科の20人の同級生の中で、就職できたのはほんの数人しかいなかった。

吉田さんは就職活動の勉強をする時間もなかったため、筆記試験すら落ちることも多かった。なんとか頑張って2次試験まで行っても、面接で落とされてしまう。

64社に落ちた末、雇われた出版社に切り捨てられる

「とにかく落ちまくりました。合計64社落ちました。『社会から無視(64)される』という語呂合わせで、いまだに覚えています」

ただ新宿区にある小さな出版社に、