カルビーの歴史は、終戦直後の1949年に松尾孝氏が「水あめ」や「キャラメル」などのお菓子を広島で販売したことに始まります。当初は、ローカルな中小企業にすぎませんでしたが、1960年代の「かっぱえびせん」、1970年代の「ポテトチップス」というロングセラーを生み出したことで、日本を代表するスナック菓子メーカーへと発展しました。
1980年代までのカルビーは日本の人口増加とともに、売上高を拡大します。カルビーは「かっぱえびせん」や「ポテトチップス」といった大型製品で圧倒的なシェアを維持していました。この頃のカルビーのポテトチップスの国内シェアは推定75%という驚異的な水準で、日本国内の人口増加とともにポテトチップスの販売数量も拡大していったのです。いわば、ポテトチップスという急成長市場で、圧倒的な成果を出しました。
1980年代までのカルビーが、ここまで圧倒的なシェアを握れた理由は、ロジスティクスにおける戦略の巧みさです。当時、ポテトチップスにとって「鮮度」が命で、ジャガイモを加工してポテトチップスとなった商品は、すぐに袋詰めされ、すぐに消費者の口に入らなければ、ポテトチップスの酸化によって品質が低下するという問題を抱えていたのです。カルビーも、ポテトチップスに参入したばかりの頃は「品質がイマイチ」と悪い評判がつきまとっていました。それほどに、ポテトチップスでは「鮮度」が重要だったのです。
ポテトチップスの鮮度という問題を克服するためにカルビーが繰り出したのが、北は北海道の千歳、南は九州の鹿児島に至る、全国を縦断する工場群でした。日本の消費者に「新鮮なポテトチップス」を供給するための工場を新設することで、ロジスティクスの面でカルビーはポテトチップス業界の競争で優位に立ちます。
競合他社がポテトチップスに参入しようとしても、カルビーのような莫大な設備投資を行うことは難しく、結果としてポテトチップスではカルビーの独壇場となったのです。
ところが、ポテトチップスのシェア75%という快挙を成し遂げたカルビーは、1990年代以降にジワジワとシェアを低下させ、2010年前後には国内シェア60%を割り込んでしまいました。2009年3月期のカルビーの業績は、売上高営業利益率3.2%という水準に低迷します。一体、かつての急成長企業・カルビーに何が起こっていたのでしょうか?
1990年代を通じてカルビーに襲い掛かったのは、食品包装パッケージの技術革新と、国内の人口減少でした。