父親の葬儀で知った「人は何のために働くのか」

「お客さまに満足していただく。働く人に満足してもらう。このバリューをつくったら、いろんなことができる。川下から川上にも上がっていける。それを確信しました。伊藤忠がやるべきは、絶対に小売りビジネスだ、と」

そして1995年、当時の室伏稔社長に手紙を書くのである。なんと、社長に直訴したのだ。しかも社長は関心を持ち、澤田は具体的な戦略レポートを書く。

専門部隊の立ち上げ準備に動き、流通業界や小売業界のトップたちにも会いに出かけ、話を聞いた。だが、最終的には時期尚早という判断となった。社長への手紙から1年半。澤田はチームを解散し、会社を辞める決意をする。

「僕の力不足もありました。でも、流通業界でトップになる、面白い会社をつくるという夢は、伊藤忠ではできないと思ったんです」

10年待てばできる、という慰留にも、澤田はなびかなかった。1997年4月、澤田は退職。伊藤忠がファミリーマートの筆頭株主となり、小売業に本格参入するのは、翌1998年2月のことだった。

決定権のない社長はダサい

伊藤忠を退職後、登録した人材会社から紹介されたのが、山口県宇部市に本社のある小さな会社だった。売上高は約400億円、営業利益は20億円ほど。後に日本の流通業を席巻することになるファーストリテイリングである。初めて会った柳井正という経営者に、澤田は圧倒された。

「日本の流通市場は巨大なのに、科学的経営ができていない……。セブン-イレブンのプロジェクトで勉強してきたことを語ると、伊藤忠のお偉方は全然関心を示してくれなかったのに、柳井さんは『澤田さん、そのとおりだ!』と全部、相づちを打ってくれて」

店頭に立つことを希望するも2カ月で経営企画室長に。さらに2カ月後には商品本部長を兼任。その2カ月後には役員を命ぜられた。入社6カ月で給料は倍に。さらに1年後に副社長。入社1年半でナンバー2になってしまう。

「ありえない。でも、こういうことをやってしまうところが、柳井さんの強さなんです」

副社長になった年、澤田が仕掛けたのがフリースキャンペーンだった。ユニクロ原宿店には長蛇の列ができ、空前のフリースブームが起こる。澤田が在職した5年で、売上高は10倍の4000億円になった。柳井からは「社長をやれ」と言われた。しかし、澤田は受けなかった。

「オーナーである柳井さんが会長として君臨する会社で、社長をやる意味がわからなかった。決定権のない社長というのは、ダサいじゃないですか(笑)。それは僕のやりたいことではなかった」

ファーストリテイリングを去った澤田には、多くの会社から声がかかった。その数、40社以上。巨額の報酬のオファーもあった。しかし、澤田は受けなかった。

「柳井さんから社長をやってくれ、と言われて断っているわけですよ。雇われて社長をやる、という選択肢はありませんでした。意地でも雇われてやるもんか、と(笑)」

亡くなったときにこそ、人は評価される

そして澤田が立ち上げたのが、企業再生ファンドだった。決めていたのは、自分のお金も入れること。そうすることで、覚悟もできる。ファーストリテイリングで手にしたお金をすべて入れて(実は家族にも内緒だったらしい)、会社をつくった。これが、キアコン。澤田のモットーである「気合いと根性」が名前の由来の会社だ。

創業当時、社会を騒がせていたのが、過剰債務に苦しむダイエー問題だった。澤田は支援企業選定に申し込んだ。1次選考では100社を超える企業が手を挙げた。2次選考に残ったのは3社。丸紅、イオン、そしてキアコンだった。無名の会社が選考に残ったことで、日本経済新聞の1面に澤田の名前が出ることになる。