父親の葬儀で知った「人は何のために働くのか」

どうしても小売業をやりたかった澤田貴司氏(撮影:梅谷秀司)
成長の鈍化、店舗数の飽和、24時間営業問題、人手不足……。逆風が吹き荒れるコンビニ業界だが、その厳しさを最初から承知して3兆円もの巨大ビジネスの変革を引き受けた男がいる。ファミリーマート社長の澤田貴司だ。澤田は2016年9月に社長に就任しているが、この直後のインタビューで、すでに問題を指摘していた。それなのに、なぜあえて社長を引き受けたのか。そこには、実は20年以上前から持っていた、澤田の小売業への熱い思いがあった。その「思い」を、このたび『職業、挑戦者:澤田貴司が初めて語る「ファミマ改革」』を上梓した上阪徹氏が明らかにしていく。

もう二度と逃げない

澤田貴司は1957年、石川県に生まれている。山あいの標高900メートルにある吉野谷村(現・白山市)だ。積雪が3メートルにもなる豪雪地帯。小学校の同級生は11人しかいなかった。小学校、中学校と生徒会長を務め、一方で野球部に席を置いた。

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高校は山あいの家からは通えず、下宿生活で金沢市内の高校に通った。野球部に入部したが、甲子園への出場経験もあった学校。厳しい基礎練習の日々に澤田は絶えられず辞めてしまう。勉強ができなくなる、が口実だった。

「でも、本当は自分のレベルでは通用しないと思ったんです」

初めて、目の前にあるつらいことから逃げた。その気持ちを引きずり、成績も上がらない。野球部を辞めた挫折は、大きな心の傷になった。もう二度と逃げない。澤田はこれを後にも貫くことになる。

1年浪人して上智大学理工学部に入学。ここで出合ったのが、アメリカンフットボールだった。役割分担があり、攻守によって選手が激しく入れ替わる頭脳プレーのスポーツ。しかし、澤田が所属していた時代は、メンバーが少なく、キックオフから終了まで、ずっと出っぱなしということも珍しくなかった。戦略は立てるものの、実践どころではない。

ここで培われたのが、澤田の好きな言葉で、後に自分の会社の由来にもなる「気合いと根性」である。理屈ではなく、とにかく走った。アメフト漬けの日々で最後はキャプテンも務めた。そして、アメフト部のOBの支援もあって、伊藤忠商事に入社する。

誰のために仕事をしているか

伊藤忠での配属は、化学品部門。1992年、転機は入社12年目の1992年。セブン-イレブンの母体、アメリカのサウスランド・コーポレーションの買収案件をまとめ、再生させるというビッグプロジェクトに抜擢されたのだ。そしてこの経験が、澤田の運命を変えた。

まずは日本のセブン-イレブンの店舗で、小売業がどんなものなのかを教わった。衝撃的だったのは、イトーヨーカ堂の創業者、伊藤雅俊やセブン-イレブン・ジャパンの生みの親、鈴木敏文の現場に対する強烈な思い入れだった。

「そんなに偉い人が、現場に行って従業員に細かく話を聞いてメモをしているわけです。お客さまは喜んでいるか。現場のための仕事になっているか。従業員、お客さまに学ぶ姿勢が徹底していた」

ショックだった。伊藤や鈴木から見えてきたのは、誰のために仕事をしているか、だった。

「自分は違った。自分のためにずっと仕事をしていたんです。右から左に、言ってみれば仲介するだけです。そんななかで、会長と社長自らが、お客さまや現場のために自ら汗をかく姿を見た。これは本当に衝撃でした」

顧客ニーズへの対応の素早さにも驚かされた。午前中に本部から指示が出たら、昼頃には売り場がもう変わっていた。