澤田貴司は1957年、石川県に生まれている。山あいの標高900メートルにある吉野谷村(現・白山市)だ。積雪が3メートルにもなる豪雪地帯。小学校の同級生は11人しかいなかった。小学校、中学校と生徒会長を務め、一方で野球部に席を置いた。
高校は山あいの家からは通えず、下宿生活で金沢市内の高校に通った。野球部に入部したが、甲子園への出場経験もあった学校。厳しい基礎練習の日々に澤田は絶えられず辞めてしまう。勉強ができなくなる、が口実だった。
「でも、本当は自分のレベルでは通用しないと思ったんです」
初めて、目の前にあるつらいことから逃げた。その気持ちを引きずり、成績も上がらない。野球部を辞めた挫折は、大きな心の傷になった。もう二度と逃げない。澤田はこれを後にも貫くことになる。
1年浪人して上智大学理工学部に入学。ここで出合ったのが、アメリカンフットボールだった。役割分担があり、攻守によって選手が激しく入れ替わる頭脳プレーのスポーツ。しかし、澤田が所属していた時代は、メンバーが少なく、キックオフから終了まで、ずっと出っぱなしということも珍しくなかった。戦略は立てるものの、実践どころではない。
ここで培われたのが、澤田の好きな言葉で、後に自分の会社の由来にもなる「気合いと根性」である。理屈ではなく、とにかく走った。アメフト漬けの日々で最後はキャプテンも務めた。そして、アメフト部のOBの支援もあって、伊藤忠商事に入社する。
伊藤忠での配属は、化学品部門。1992年、転機は入社12年目の1992年。セブン-イレブンの母体、アメリカのサウスランド・コーポレーションの買収案件をまとめ、再生させるというビッグプロジェクトに抜擢されたのだ。そしてこの経験が、澤田の運命を変えた。
まずは日本のセブン-イレブンの店舗で、小売業がどんなものなのかを教わった。衝撃的だったのは、イトーヨーカ堂の創業者、伊藤雅俊やセブン-イレブン・ジャパンの生みの親、鈴木敏文の現場に対する強烈な思い入れだった。
「そんなに偉い人が、現場に行って従業員に細かく話を聞いてメモをしているわけです。お客さまは喜んでいるか。現場のための仕事になっているか。従業員、お客さまに学ぶ姿勢が徹底していた」
ショックだった。伊藤や鈴木から見えてきたのは、誰のために仕事をしているか、だった。
「自分は違った。自分のためにずっと仕事をしていたんです。右から左に、言ってみれば仲介するだけです。そんななかで、会長と社長自らが、お客さまや現場のために自ら汗をかく姿を見た。これは本当に衝撃でした」
顧客ニーズへの対応の素早さにも驚かされた。午前中に本部から指示が出たら、昼頃には売り場がもう変わっていた。