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母の願い・亀甲
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「いいえ! 大事な方を亡くされたお気持ちは私も分かりますので、ご無理なさらないでください」
子供心に親を喪う経験をした楓は、千鶴子の気持ちが分からないではなかった。しかも千鶴子は自分の腹を痛めて産んだ一人息子。彼に掛ける期待も大きかっただろうし、たった一人の息子に先立たれた母親の苦しみは如何ほどだろう。
「ところで楓さん。私は少し、健斗と仕事のことで話したいことがあるのだが、君はその間、どうしているかね? 本来なら千鶴子と一緒に打ち解けてもらおうと思っていたのだが、千鶴子は部屋へ戻って行ってしまったし……」
仕事の話に楓が同席していてはまずいだろうし、かといって、初めて訪れる峯山の本家で、他に知る人も居ない。楓は辰雄にこう願い出た。
「でしたら、私はカステラをもって、大奥さまを見舞ってはいけませんでしょうか。大奥さまには、色々ご指導いただかなければならない身ですので、そのこともお願いに上がりたいと思います」
楓の申し出に、辰雄は頷いてくれた。
「千鶴子も娘が出来ることは、喜んでくれていると思うんだ。任せてしまって悪いが、見舞ってやってくれるか」
「はい、大旦那さま。では旦那さま、私ちょっと、行ってまいりますね」
辰雄に頼まれ、健斗を見て言うと、健斗も微笑んで頷いてくれた。
「ああ。私のことは構わず、二人が仲良くなってくれたらそれでいいぞ。義母上も気持ちの整理と言うものがあるだろうし」
健斗はそう言うが、海の向こうに家族を残して日本に来たのに、義母が打ち解けないとあっては、健斗も気がかりだろう。千鶴子の遺されたものとしての気持ちも分かるから、なんとか二人の仲介が出来れば良いが、と楓は思う。
楓は使用人に二人分の茶とカステラを持ってもらい、屋敷の奥の千鶴子の部屋を見舞った。静かな襖の前で、部屋の中に声を掛ける。
「大奥さま、楓です。お茶とカステラをお持ちしたのですが、召し上がりませんか」
襖は、やや躊躇った様子のあと、そっと開いた。開けてくれた使用人に頭を下げ、茶を持って来た使用人と一緒に部屋に入る。楓はそこで改めて畳に手をつき、頭を下げた。
「大奥さま、改めまして、楓と申します。この度、峯山家に嫁いでまいりました。大奥さまには色々ご指導いただかなくてはいけない身。お具合がすぐれないと知りながら、ひとことご挨拶をさせて頂きたく、参りました」
千鶴子の発言を尊重しつつそう言うと、顔をお上げになって、と静かな声が届いた。千鶴子はとても申し訳なさそうな目で楓を見ており、髪をきっちりと結い上げ、上品な様子でこの部屋の主としてそこにいた。
「わたくしの方こそ、折角の顔合わせの席を外してしまって、ごめんなさい。でも、あなたがたずねてきてくれて、嬉しいわ」
言葉通り、千鶴子は楓の目の前に来て、畳に付いた楓の手を包んだ。これには楓も驚き、戸惑った。
「お、大奥さま……」
「本当よ。洋一を授かるのが遅かったから無理だったけど、本当は女の子も欲しかったの。一緒にお茶を頂きましょう」
微笑んで楓を見る千鶴子の目に社交辞令はなかった。楓の手を引き、部屋の中央にある卓に座らせる仕草は、心底娘との会話を求めており、楓はおとなしく千鶴子の向かいに座った。楓が座り、千鶴子も座ると、千鶴子はもう一度眉を下げて楓に謝罪した。
「楓さん、さっきはごめんなさいね。あなたが来てくれたことが嬉しいのは、本当よ。ただ……」
そう言い、千鶴子が視線を斜め下に向ける。黙って聞いている楓に遠慮しつつも、千鶴子は言葉を継いだ。
「あの子のあの見た目がおそろしいのよ……。まるで異形じゃない……。あなた、そう思わなくて?」
そう言って両手で顔を覆う千鶴子はきっと、古風な家の出なのだろう。維新以降、東京では社交界でも外国の人を見かけるようになり、その麗しい容姿から西洋への憧れを持つ若い女性が心を弾ませていると聞くのに、千鶴子の言葉はそれと全く反するものだった。
喪ったものが大きすぎるのだろう、洋一(かれ)と全く異なる成りの健斗を、息子だと認識できない千鶴子に、しかし楓は心を砕いて言葉を発した。
「大奥さまのお気持ち、私もいくらか分かります。ですが、人の本質は成りではないことを、大奥さまには知って頂きたいのです」
子供心に親を喪う経験をした楓は、千鶴子の気持ちが分からないではなかった。しかも千鶴子は自分の腹を痛めて産んだ一人息子。彼に掛ける期待も大きかっただろうし、たった一人の息子に先立たれた母親の苦しみは如何ほどだろう。
「ところで楓さん。私は少し、健斗と仕事のことで話したいことがあるのだが、君はその間、どうしているかね? 本来なら千鶴子と一緒に打ち解けてもらおうと思っていたのだが、千鶴子は部屋へ戻って行ってしまったし……」
仕事の話に楓が同席していてはまずいだろうし、かといって、初めて訪れる峯山の本家で、他に知る人も居ない。楓は辰雄にこう願い出た。
「でしたら、私はカステラをもって、大奥さまを見舞ってはいけませんでしょうか。大奥さまには、色々ご指導いただかなければならない身ですので、そのこともお願いに上がりたいと思います」
楓の申し出に、辰雄は頷いてくれた。
「千鶴子も娘が出来ることは、喜んでくれていると思うんだ。任せてしまって悪いが、見舞ってやってくれるか」
「はい、大旦那さま。では旦那さま、私ちょっと、行ってまいりますね」
辰雄に頼まれ、健斗を見て言うと、健斗も微笑んで頷いてくれた。
「ああ。私のことは構わず、二人が仲良くなってくれたらそれでいいぞ。義母上も気持ちの整理と言うものがあるだろうし」
健斗はそう言うが、海の向こうに家族を残して日本に来たのに、義母が打ち解けないとあっては、健斗も気がかりだろう。千鶴子の遺されたものとしての気持ちも分かるから、なんとか二人の仲介が出来れば良いが、と楓は思う。
楓は使用人に二人分の茶とカステラを持ってもらい、屋敷の奥の千鶴子の部屋を見舞った。静かな襖の前で、部屋の中に声を掛ける。
「大奥さま、楓です。お茶とカステラをお持ちしたのですが、召し上がりませんか」
襖は、やや躊躇った様子のあと、そっと開いた。開けてくれた使用人に頭を下げ、茶を持って来た使用人と一緒に部屋に入る。楓はそこで改めて畳に手をつき、頭を下げた。
「大奥さま、改めまして、楓と申します。この度、峯山家に嫁いでまいりました。大奥さまには色々ご指導いただかなくてはいけない身。お具合がすぐれないと知りながら、ひとことご挨拶をさせて頂きたく、参りました」
千鶴子の発言を尊重しつつそう言うと、顔をお上げになって、と静かな声が届いた。千鶴子はとても申し訳なさそうな目で楓を見ており、髪をきっちりと結い上げ、上品な様子でこの部屋の主としてそこにいた。
「わたくしの方こそ、折角の顔合わせの席を外してしまって、ごめんなさい。でも、あなたがたずねてきてくれて、嬉しいわ」
言葉通り、千鶴子は楓の目の前に来て、畳に付いた楓の手を包んだ。これには楓も驚き、戸惑った。
「お、大奥さま……」
「本当よ。洋一を授かるのが遅かったから無理だったけど、本当は女の子も欲しかったの。一緒にお茶を頂きましょう」
微笑んで楓を見る千鶴子の目に社交辞令はなかった。楓の手を引き、部屋の中央にある卓に座らせる仕草は、心底娘との会話を求めており、楓はおとなしく千鶴子の向かいに座った。楓が座り、千鶴子も座ると、千鶴子はもう一度眉を下げて楓に謝罪した。
「楓さん、さっきはごめんなさいね。あなたが来てくれたことが嬉しいのは、本当よ。ただ……」
そう言い、千鶴子が視線を斜め下に向ける。黙って聞いている楓に遠慮しつつも、千鶴子は言葉を継いだ。
「あの子のあの見た目がおそろしいのよ……。まるで異形じゃない……。あなた、そう思わなくて?」
そう言って両手で顔を覆う千鶴子はきっと、古風な家の出なのだろう。維新以降、東京では社交界でも外国の人を見かけるようになり、その麗しい容姿から西洋への憧れを持つ若い女性が心を弾ませていると聞くのに、千鶴子の言葉はそれと全く反するものだった。
喪ったものが大きすぎるのだろう、洋一(かれ)と全く異なる成りの健斗を、息子だと認識できない千鶴子に、しかし楓は心を砕いて言葉を発した。
「大奥さまのお気持ち、私もいくらか分かります。ですが、人の本質は成りではないことを、大奥さまには知って頂きたいのです」
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