大正政略恋物語

遠野まさみ

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母の願い・亀甲

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 峯山の本家は山手の住宅街の一画にあった。住宅地の一角を全て屋根付きの白い壁が囲っていて、その真ん中に圧倒的な数寄屋門が立っている。その門の大きさに気圧されて、楓は門の前に立ち尽くした。

「どうした。入るぞ」

 そう言って健斗は立ち尽くして動けなかった楓の肩をそっと抱き、歩むよう促した。

 大きな数寄屋門をくぐると、目の前に広がる庭園に息をのんだ。緑豊かな木々や花々が、春の盛りを美しく表現していた。桜は満開で、先に開いたものが散ったのか、薄桃色の絨毯のように花びらが地面を彩っていた。梅は散り始めていたが、その香りはまだ残っていた。池には鯉が泳ぎ、石灯籠や石橋が風情を添えていた。水面には蓮の葉が浮かび、一部では小さな花が咲き始めていた。庭園の奥には、屋根に瓦を敷き詰めた立派な和風住宅がそびえていた。白壁に黒い格子戸、軒下には庭に面した濡れ縁、玄関には竹の細工の提灯が掲げられていた。

 楓は、目の前の大豪邸を凝視して、息を呑んだ。こんな家に住む人たちと、どうやって話せばいいのだろう。楓は、健斗が今日のためにと仕立てさせてくれた熨斗文に薔薇の着物を身にまとっていたにもかかわらず、中身が伴わないことを思い、この場に相応しくないと感じた。楓は健斗に促されて玄関に向かったが、足取りは重く、頭の中では最初の挨拶のことを反芻することで精いっぱいだった。

 健斗が玄関の格子戸をカラカラと引くと、上がり框には着物を着た使用人が待っていて、お帰りなさいませ、と唱和した。まさか使用人が待ち構えているとは思わず、楓はこの時点で峯山本家の空気に飲まれた。

「うん、ご苦労。養父(ちち)たちは?」

「お待ちになっておられます。どうぞ、客間へ」

 そう言って先導する使用人についていく。楓は健斗の背中を見ながら古くて立派な建物の中を歩いた。

 ピカピカに磨かれた長い廊下を歩いて導かれた先の広い客間で待っていると、直ぐに白髪交じりの壮年の男性と婦人が入って来た。男性は上品な橡色(つるばみいろ)の着物姿で、柄は家の繁栄を願う紗綾型(さやがた)文様。嫁を迎え入れるのにふさわしい柄だった。一方の婦人は落ち着いた薄紫の地に吉兆文様の扇面松柄。末広がりでもあるこの柄は、めでたい席によく着用される。紳士の文様と同じく、この場に相応しいと言える。

「養父上(ちちうえ)、養母上(ははうえ)。お時間を取っていただき、ありがとうございます」

 健斗が頭を下げるのに倣って、楓も頭を下げる。辰雄が微笑んだ。

「はは、堅苦しくしなくていい。楓さん……、だったか。君もくつろいでくれ」

「大旦那さま、大奥さまにははじめてお目にかかります。楓と申します。堀下から嫁いでまいりました。本日はお忙しい中、お招きいただきありがとうございます。これはつまらないものですが、宜しければ、お召し上がりください」

 そういって差し出した風呂敷包みには、帝都で名高い菓子店で購入したカステラが包まれている。箱を見た辰雄が目じりを下げた。

「良かったじゃないか、千鶴子。お前はここのカステラが好きだっただろう」

「え、……ええ……」

 辰雄が話を向けるも、千鶴子の表情は冴えない。もしかして土産選びに失敗してしまっただろうかと楓がハラハラしていると、健斗がそっと楓の背に手を添えた。落ち着け、と促してくれているようで、楓も呼吸を整える。楓の視線の先で、千鶴子はなんとか表情を整え、カステラの収まった箱を見た。

「そうね……、みんなで分けて頂きましょうか」

 千鶴子がそう言うと、辰雄が使用人を呼んで切って来させた。しかし、切り分けられたカステラを前にしても、やはり千鶴子の表情は冴えない。

「……大奥さま、お加減でもお悪いのですか……?」

 楓のことを厭っているのかと思ったが、この覇気のなさは人を嫌う気力ではない。もし体調が悪いのだったら、自分は改めて出直してもいいと思ってそう問うと、千鶴子はやや逡巡して、そうなのよ、と小さく言った。

「あなた。そういう訳なので、わたくし席を外させて頂くわ」

 これには辰雄も驚いたようで、おい……、と咎めるが千鶴子は部屋を出て行ってしまった。具合が悪い時に訪問してしまって申し訳なかった、と落ち込んでいる楓に、気にするな、と健斗が言った。

「義母上は私を前にすると、いつもああなんだ」

 健斗の言葉に、辰雄も申し訳なさそうに口を開く。

「すまないな、健斗。お前が悪いわけではない。むしろお前はよくやってくれていると思う」

 二人の間で完結している話を少しでも分かりたくて、楓は訊ねた。

「あの……、大奥さまには、何かお悩み事でもおありなのでしょうか……」

 健斗を前にするといつもそう、というのが気になった。楓の問いに、辰雄が申し訳なさそうに口を開く。

「健斗が養子であることは承知と思うが、あれは息子の洋一をとても可愛がっていたからね。亡くなってまだ半年だし、息子が亡くなったことを受け止めきれていないのだろう。すまない、楓さん」

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