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第三章 南の楽園マリソル
35.悪役令嬢は対峙する
しおりを挟むどこからか金木犀の香りがする。
この世界でも、あの小さな黄金色の花が咲くのだろうか。それとも似た匂いを放つ、まったく異なる別物だろうか。姿形や匂いが似ていても必ずしも同じであるとは限らない。
私自身が、アリシア・ネイブリーの偽物であるように。
「こんな場所でお目に掛かれるとは思っていませんでした。王族の方は随分と遅い時間に出歩かれるのですね」
「棘のある物言いだな。一応君を助けに来たんだが」
「……その件は、ありがとうございます」
エリオットは不服そうに少し眉を顰めた。
命の恩人として泣きながら感謝されると思ったのだろうか。私は注意深く観察を続けながら、地面に手を突いて立ち上がった。スカートに付いた砂を叩いて落とす。
エリオットがここに居て、私の名前を「アリシア」と呼んだ。それら二つが意味するのは、私はもう言い逃れなんて出来ないということ。いつから彼は気付いていたのだろう。もしかすると最初から?
「ニケルトン公爵家でお会いした時は、上手く誤魔化すことが出来たのだと思っていました…」
「君の下手な変装と分かりやすい嘘を聞いて、何か事情があって自分を偽ろうとしていることは推測できた」
「……事情ですって…?なにを惚けたことを仰っているのですか?貴方が私をこんな目に遭わせているんでしょう!?」
最後の方は叫び声のようになってしまった。
私の気持ちは随分と昂っていた。
聞きたかったこと。伝えたかった思い。そうした溜まり溜まった感情が心の奥底から溢れ出てくる。私が試行錯誤して繰り広げた逃亡劇は、つまりすべて彼にお見通しだったのだ。ニケルトン公爵家で出会した時に、私の幼稚な嘘に騙されたふりをして、ここまで泳がせていただけ。
挙げ句の果てには「何か事情があったんだろう」とこっちの気持ちを慮るような態度を見せる。その事情を作った張本人にそのような気遣いを見せられることがどんなに屈辱的か、彼は理解しているのだろうか。
「逃げ出した私が鼠のように地を張って生きている姿も見過ごせないのですか?すべて貴方の思い通りにならないと気が済まないと…?」
「アリシア、」
「私をデズモンドへ幽閉するんでしょう?二度と悪さをしないように隔離したいのよね?」
「………違う」
「今更何を言っても遅いです。心配しなくても私は貴方の邪魔はしないわ。ただ普通に穏やかに生きたいだけよ…!」
ザッと強い風が吹き抜けた。
地面に落ちていた木々の葉っぱが舞い上がる。
エリオットは聞き耳を持たない私の態度に嫌気が差したのか、少し腹立たしそうに目を閉じた。片手で髪を掻き上げて考え込むように閉口する。しかし、すぐに諦めたのか首を振ってこちらへ目を向けた。
「何を誤解しているのか知らないが……デズモンドには幽閉するためではなく、医者に診せるために連れて行こうとしていた」
「……医者?」
「有名な精神科医が居るんだ。君はここ最近、リナリーに対して敵意を抱き…取り乱すことが多かっただろう?」
「………、」
「彼女は君が思うほど悪い人間じゃない。どうか、仲違いせずに良い友人として接してやってほしい」
「良い友人…ですか?」
「ああ」
呆れてものが言えなかった。
こんな場所まで、そんなことを言うために来たのだろうか。自分の婚約者の気持ちが傾いている相手と仲良く手を繋いで友達ごっこをしろと、わざわざ伝えるために?
「お言葉ですが、それは無理な話です」
「なに……?」
「殿下は何の下心もなくリナリー様と友人関係を続けてらっしゃるのですか?」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味です。エリオット様…貴方は、私の前で自分の心の潔白を誓えるのですか?」
「………それは、」
わずかな沈黙。それで十分だった。
私は手に取るようにエリオットの心が読めた。
精巧な機械のようなエリオット・アイデンは初めての恋をしているのだ。婚約者であるアリシアがいるにも関わらず、リナリー・ユーフォニアという絶対的なヒロインに。
本人すら気付いていないのだろうか?
悪いけど私は彼の恋のお手伝いをするほど親切にはなれないし、これ以上ここでエリオットに彼の初恋を気付かせる当て馬役を勝って出るのは懲り懲りだった。
「すみませんが、もう帰ります。禁忌を犯してまで助けていただきありがとうございました」
皮肉な言い方が癇に障ったのか、エリオットは眉間に皺を寄せる。でも、もうべつにどうでも良かった。
「あと……実は私、事情があって魔力と記憶を失くしているんです。貴方がよく知っている婚約者としてのアリシアはもう居ません。だからどうぞ、お好きにしてください」
「は……?何を突然、」
「もう、貴方に気持ちはないということです」
にこりと笑顔を向けるとエリオットは驚いたように目を開く。薄いグレーの瞳が揺れるのが見て取れる。マリソルの強いお酒のせいか、私は自分の口からこんなに強い言葉が出ることに衝撃を受けていた。
ごめんなさい、アリシア。
私はこの男が許せない。
「君が俺のことをどう思っていても構わない。距離を置くために放浪の旅を続けても良い。ただ、来週の母の誕生日には来てくれないか?母は君のことを気に入っている。ここのところ体調が悪いんだ…」
言葉に詰まった。エリオットの母であるエスティ・アイデンの身体が弱いことは本でも触れられていたけれど、王妃の誕生日イベントにまさか呼ばれるとは。それはたしか、リナリーが聖女の力に目覚める場だったはず。
というか、彼らはまだ婚約していないのだろうか。邪魔者である私が退散してあげたのに、いったい何をぐずぐずしているの?
「………考えます」
「ありがとう。そう言って貰えて嬉しい」
ホッとしたように顔を緩めるエリオットを見つめた。
送って行くという申し出を断って教会への道を歩き出す。分かりきった結末への絶望と理解不能なエリオットの行動に対する不安、そしてアリシアの気持ちを無視した後悔で頭が痛んだ。
アリシア・ネイブリーを幸せにしたい。
それだけなのに、正解はいつも分からない。
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