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第一章 失われた記憶編
09.王子は出掛ける
しおりを挟むよく晴れた日のことだった。
私はマリソン王妃に呼び出されて部屋に向かう途中で、廊下ですれ違ったノアとカーラに頭だけ下げた。そのまま通り過ぎようと思ったのに、ノアは私の名前を呼んで、カーラに何か伝えるとこちらに歩いて来た。
「……どうされましたか?」
相変わらず表情のない端正な顔を見上げる。
「これからカーラと車で出掛けるけど、」
「ごめんなさい、私は王妃に用事が……」
「いや。誘ってるわけじゃない、出掛けることを伝えたかっただけだ」
「……すみません…分かりました」
二人がその場を立ち去るまで、顔を上げることが出来なかった。自分のことがとんでもなく惨めに思えて、少しでも気を緩めると大声で泣いてしまいそうだった。
ノアの心はもう私にはない。だけれど、夜だけは夫婦のように手を取り合って彼に抱かれる。それは屈辱的も良いところで、プライドなんてとっくの昔に枯れていた。それでもまだこの手を離せないのは、彼の現状に理解を示したいという捨て切れない優しさと他に行く宛がないという情けなさ。
震える脚を叩いて、唇を噛んだ。
泣いてはいけない。ノアは忘れているだけ。
マリソンの部屋への道のりはいつもより長く感じた。
◇◇◇
「あの女、頭がおかしいんじゃないかしら?」
マリソンは腹立たしげに言い放ち、手に持ったカップをドンと机の上置いた。弾みで数滴の紅茶がカップから溢れる。
彼女の言う「あの女」とはつまりカーラのことだった。最近のマリソンは私と共に居る間、授業と言うよりほとんどの時間を彼女の愚痴に費やしている。国王が長期で出掛けている今、王宮の切り盛りをしながらこのような問題に頭を悩ませるのは大変なのだと思う。
マリソンの心労を増やしたくないし、話せる内容でもないので、ノアが夜だけ私を求めてくる話は誰にもしていない。私たちの異常な関係は、他の者は知る由もなかった。
「ノアが彼女を気に入っているので…仕方がないです」
「あの子もあの子よ!貴女のことを蔑ろにして、どこの女か分からない娘に夢中になるなんて」
嘆かわしい、と吐き捨てるように言うとマリソンはハンカチで額の汗を拭った。
季節はもう夏に向かおうとしていて、海沿いの小さな街に連れて行く、というノアの誘いを私は思い出していた。車に乗って二人だけで、サンドイッチを詰めたバスケットも持って行こう、なんて言っていたのに。
私が座る予定だった場所に違う女の子を乗せてノアは出て行った。何処に行くのか知らないけれど、その素敵なドライブの計画に私は誘われもしなかった。お飾りの婚約者とはこういう状態を言うのだろうか。
「王妃殿下、もしもこのまま彼の記憶が戻らなかったら…」
「言わないでリゼッタ!そんなことは許さない」
「……ですが、」
「貴女が弱気になってどうするの!ノアの婚約者は貴女しかいない。お願いだから変な考えは起こさないで」
強い口調で王妃はピシャリとその場を正す。私はもう何も言えなくなって、ただ温くなった紅茶を口に流し込んだ。
変な考え、それはノアが持っているのであって私ではない。昼はカーラに愛を捧げて、夜は私の身体を消費する。誰も知らない私たちの関係は、心を蝕んで内側から壊していくようだった。
何よりも恐ろしいのは、私自身が、変わってしまったノアをこれ以上愛せなくなってしまうこと。
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