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玖
しおりを挟む「次からは徳郎様の奥様がいらっしゃるのですね」
柿本家の広大な庭園にて、親子のように庭の小径を歩く柿本明子と立松徳郎を、柿本家使用人の蓮太郎と、立松家使用人の平八が並んで眺めている。
明子と世間話をしながら庭を回ることも徳郎の仕事の一環であるが、この二人の信頼関係は商売の域を越え、ときには徳郎が商用以外で夫人に招かれることもあった。
「立松の大旦那様も、亡くなるまで若様のご結婚を心配してらしたからな。ようやく墓前によい報告ができるということだ」
そう言って平八が微笑むと、となりのクロ…蓮太郎も、同じように笑みを浮かべた。
「きっとおよろこびになるでしょうね」
「うむ………まあ、お二人ともこの先うまくやってくれたらいいがな」
老舗の有名呉服店、その後継ぎである若旦那・徳郎の結婚。このことは新聞にも簡素に書き立てられた。それなのにあまり派手に祝いが成されなかったのは、新婦が『特殊』な人間であるからだ。
「お二人を見守るのもあなたのお仕事です」
「荷が重い。いろいろと神経も使うしなあ」
「使用人というのは神経を使うのがお仕事です」
「仕事、仕事と。お前は働き者だ。……ときにぐーたらの化け猫は今日はいねえのかい?」
「さあ……ネコの行き先など誰にもわかりません。気まぐれなんですから」
「あいつは俺を嫌っているからな。 人間ごときに正体を暴かれたことが、よほどシャクにさわったと見える」
「見透かしても口にしないのがマナーですよ」
「マナー?」
「西洋の言葉で、気づかいという意味です」
「ケッ。ならば気づかいと言え」
いつもは執務室にいる蓮太郎も、立松徳郎が来訪するときにはこうして庭にやってくる。しかし使用人の彼がわざわざ接待する必要はない。執事が万事の段取りを受け持つからだ。
それでも庭まで降りてくるのは、やはりこの西 平八のためである。かつては、はちす屋で週に一度は顔を合わせていたこの二人も、蓮太郎がこの柿本家の使用人にやられてからは、なかなか会うことができなくなってしまった。定休の曜日も違うのだ。すっかり洋装が当たり前になった蓮太郎と、和装のままでもよそ行きはずいぶん仕立てのよいものを着るようになった平八。出会ってから、もう十年近い歳月を経てしまった。
十五の終わりごろに、蓮太郎は柿本家に丁稚にやられることが決まった。それまでの期間は変わらずはちす屋におり、頻度は減ったが用事のない休日には、平八は変わらず見世まで通ってきてくれた。
だが今となってはいよいよ離ればなれになってしまいそうで、少しさびしい。蓮太郎がいつもの座敷でそうつぶやいた。すると平八は、休みの日にも可能な限り会いにいくし、立松家と柿本家には強いつながりがあるから、仕事の用事で顔を合わすことはできるだろうと言った。
「でも僕は、仕事とは関係なくあなたとお会いしたい。それは柿本家でも、このはちす屋でもないところ。……あなたとはそういう結びつきでありたいです」
それがはじめて口にした、蓮太郎の平八への想いであった。
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