つらじろ仔ぎつね

めめくらげ

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「……客に惚れるとは、お前もまだまだ青い」

「私はこの座敷でお会いしても、あなたをお客とも、遊びの相手だとも思ってません」

「お蓮や、俺に惚れてもいいことないぜ。それにお前は立派なお狐様だ。人間のような畜生に、やすやす心を許してはいけねえよ」

「そんなこと……」

「男が女のような泣き顔を見せるな」

蓮太郎のヒザに乗せていた頭を、そっと起こす。

「俺はきっと、お前への接し方を間違えておったのだな」

「………」

ひどい男だ、と思った。まるで自分が勝手にのぼせているかのような口ぶりだ。だがそうだというのなら、のぼせあがらせたのは紛れもなくこの憎き男である。道ばたで冷やかしてきて、無理やり座敷に上がってきて、いつも優しげに接してきて、そしてこの結末か。

「悪いことから足を洗っても、性根の腐ってるのはどうにもならないんですね」

低い声で言うと、感情の消えた眼で、蓮太郎はすっくと立ち上がった。
平八に買ってもらった帯をほどき、帯留と共に彼に向かって投げつける。次に着物も足袋も脱ぎ捨てて、さらには使わずにしまっていた包み紙とその中の小銭もぶちまけた。そうして部屋の中にあった平八からもらったものすべてを、片っぱしから投げつけた。平八はそれを避けも防ぎもせずただじっと受け入れ、散らばる小銭の方に目を伏せていた。

「いますぐこの見世を出て、金輪際ここの暖簾をくぐらないでください」

うすい襦袢だけになった蓮太郎が、あの日の横丁で見たときとおなじ眼をして平八をにらんだ。しかし涙が幾筋も流れ落ち、細い肩をふるわせている。

「早く」

刺々しくも濡れた声でうながす。

「……早く消えちまえ。お前なんか大嫌いだ」

そう吐き捨て、背中を向けた。しかし襖を開いた瞬間、背後からそれを制された。平八の腕に胴体をしっかりと抱きすくめられ、振りほどこうとしてもそれは微動だにしなかった。

「離せ……」

どんなに力を込めても、自分よりずっと大きな男の力にはかなわない。そのまま後ろから抱き抱えられるように引きずられ、襖をしめられた。そして、いつもの座敷のとなりにある部屋まで連れ込まれ、今まで使いもしないのに敷かれてあったちりめんの布団の上に押し倒される。

「嫌!」

「嫌がどうした」

頬をひっぱたいても、胸をたたいて押し上げようとしても、あるいは身をよじらせて逃げようとしても、無抵抗に等しいほどどうにもならなかった。ドクドクと心臓が脈打ち、顔には怯えの色が浮かぶ。あのとき横丁で見た平八の擦れた目つきが、再びこの目に突き刺ささってきた。裸も同然となった身体の上に、男が乗っかっている。そんなのはいくらでも見させられてきたのに、これが自分に降りかかるとこんなにも恐ろしいものなのか。その圧倒的な生々しさに、蓮太郎は心から恐怖していた。

「……んっ」

唇が重なり、舌を割り入れられ、絡まり合う。キセルの煙の味がして、なめくじが口に入り込んでいるようで、そして妙にひんやりとしている。右手首は強く握られているが、顔を背けられないようにもう片方の手で顎を固定されていた。するとおもむろに唇をはなされ、細くのびた糸がぷつりと切れた。

「舌を噛み切られずに済んだな」

眼前でにやりと笑う彼の顔を呆然と見つめる。まだしつこく涙があふれ、目尻から流れ落ちる。しかし悲しいわけではない。怒りか恐れか、それも分からない。蓮太郎の複雑な表情を、平八は数秒間じっと見つめた。

「俺なんぞこの程度の男だ」

憎々しい顔で呟き、身体を離してすぐに立ち上がると、襦袢のはだけた蓮太郎を置き去りにして、彼は一度も振りかえらずに部屋を去っていった。




ー「なんだ平八、もう帰るのか?」

階段の下で鉢合わせた梅岡が、不思議そうな顔をした。

「急用かい?」

「いや」

「まだ三十分と居らんじゃないか」

「……とっつぁん、お蓮とはもう仕舞いだ。たくさんひどいことをしちまった。達者でな」

「な……おい、待て。何があった?平八……」

呼び止める間もなく彼は出て行き、梅岡は蓮太郎の座敷と玄関とを交互に見やった。しかし次の瞬間、座敷から飛び出した白いものに驚き、それが半分だけ白狐と化した襦袢姿の蓮太郎であると認識したのは、けたたましい足音で彼が階段を駆け下りて、目の前を通り過ぎ、玄関を飛び出していったときである。今度はその名を呼ぶ間もなかった。

間もなく夜に差し掛かる、薄暗い夕暮れの花街。無数に並んだ妓楼の灯がぽつぽつともされ、夜の口開けまでの不気味な熱気が立ち込めていた。その向こうにそびえ立つ大門を一直線に目指す。あれを抜ければもう二度とこの町には入らない。

だが橋を渡る手前で、何かに背中を思い切り突き飛ばされ、不意のことだったので思わず地面に手をついた。そして振り返る間もなくのしかかられ、髪の毛をつかまれ、頭を幾度もポコポコと叩かれた。

「馬鹿野郎!!大馬鹿野郎!!ホントにあんとき、おっ死んじまえばよかったんだ!!」

蓮太郎が泣き叫ぶように大声をあげて、そのせいで何事かと見世から見物人が顔をのぞかせた。通りすがる者もみんな足を止め、怪訝な顔をしたり薄ら笑いを浮かべたりしている。

「あ痛たた!お蓮、やめねえか!」

「お前なんか、今すぐこっから川に落ちて死んじまえ!!」

野次馬から笑い声が起きる。しかし当の本人は泣きながら本気で訴えている。

「あんさんニクイねぇ、他の姐さんに乗り換えたのかい?」と囃され、「おおい、こっちで蔭間のガキが間夫を殺そうとしてるよ」と誰かがふざけて叫んだ。

「こら蓮太郎!よさんか!!」

血相を変え、慌てて後を追ってきた梅岡が、平八に馬乗りになった蓮太郎を取り押さえる。乱れた襦袢から、細い右肩と細い腿があらわになっている。色めき立った群衆の笑い声と冷やかす声とで、辺りはたちまち人で溢れかえった。橋の向こうにも人が集まって、梅岡に引き剥がされるまで「もっとやれ」の声が続いた。

「あいすみませんよ、道を開けてくんな」

興奮してまだ耳としっぽが出たままの蓮太郎を捕まえながら、梅岡が顔を真っ赤にして人混みをかき分けていく。その後ろには髪を掻き乱され顔に引っかき傷を作った蓮太郎も続いて、「兄さん、ずいぶん男前だのう」と冷やかしてきた通行人の頭に、平手を一発喰らわせた。
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