つらじろ仔ぎつね

めめくらげ

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水割りをもう一杯飲んで、その日はそれだけでしまいにして、黒シャムのゲーテは一足先にポピー・ハイツに帰って行った。玄関はしまっているので、カギを開けたままにしてある窓から入っていく。渡された紙袋をテーブルの上に置き、窮屈な服を脱いで敷きっぱなしの布団に寝転がる。引越し資金など貯める前に、まずはこのせんべい布団を買い換えてほしいものだ。
そのまま少し眠って、一時間半ほどしてから階段のきしむ音で目をさました。天井を見つめながら、ドアが開かれるのを待つ。

「ただいま」

いつものように銭湯に寄ってから帰ってきた西を、いつものように寝そべったまま出迎える。

「……この姿に顔をこすりつけるのは、さすがに抵抗があるなあ」

そこには"人型"のゲーテが、全裸のままで布団の上で手枕で横たわり、じっと飼い主をみつめていた。

「そんなことしやがったらブン殴るぞ」

「怖い怖い」

「あれは本当にストレスがたまる」

「でも僕にはストレス解消です」

「別の解消法を探せ。それか大学とバイトをやめろ」

ごろんと仰向けになる。

「この姿ならもう鬱陶しい思いはしなくていいな」

「さあ、どうかな」

「は?」

「試してみないことには……」

「は?おい……」

逃げる間もなく、西が寝そべるゲーテに抱きついて頭をかかえこみ、その髪に頬をうずめるようにして、いつもの"スリスリ"をした。

「お前、クソガキが、離せ!」

「ああ、これも悪くない」

ネコ化した自分に対しては、今までまったく力を込めずに触れていたのだといま知った。人間と化した自分を抱く西の腕は、簡単には振り払えないほど力強かった。ぷはっ、とその胸からようやく顔を離すと、宣言通りゲンコツを食らわせようと拳を握ったが、その手もあっさり捕らえられる。

「あなたはネコでも人でもかわいいですね」

「……いつから気付いてた」

「はじめっから知ってましたよ。人の姿をしていても、耳としっぽがちらちら見えてましたから。変なコスプレかと思ってましたけど、どうやら他の人には見えていないようでしたから、何かそういう生き物なんだな、って」

「お前、見えてたのか?」

「……どういうわけか、父方が代々そういうのを見やすい家系みたいです。父も兄貴たちも霊くらいならよく見るそうですが、俺にはキツネも見えます。でもネコマタは初めてでした」

「なんと……そんなら早く言え。俺の必死の言い訳をむげにしやがって」

「いやあ、知らないふりをして過ごすのも楽しいかなって」

「性格の悪い奴だ」

「かわいい人には意地悪をしたくなるものです」

「俺はネコじゃ」

「どっちでもいい。……あなたは俺のかわいい化け猫です」

咽喉もとをくすぐるように撫でられるが、ヒト化しているとまったく気持ちよくない。だがもうその手を振り払う気力はなかった。

「誰にも言うなよ」

「誰も信じるわけないでしょう」

「仲間にバレたら怒られる」

「どんな仲間です?」

「……一口には言えねえよ。いろんな種類だ」

「そうですか。……世間にはいろんな魑魅魍魎がまだいるんですね」

そう言うとゲーテの髪をひと撫でして、起き上がった。

「あなたがその姿でいるうちにレポートをやっとこう。キーボードに乗られなくて済む」

「さて、それはわからんぞ。ヒトになろうとも手を出したくなる性分は変わらん」

「その姿で乗っかられるのは危険だ」

「いつもやっとることだろう」

そのあとは一時間ほどレポートに没頭し、もう少しいけそうなのでいつもより長くパソコンに向かっていた。するといつの間に本来の黒シャムに戻ったゲーテが、おもむろに西の肩に乗っかって、しっぽを首に巻きつけてコショコショと耳をくすぐってきた。

「退屈かい?」

しかしシャムは何も答えない。

「……もう寝ようか」

そう言うと、小さくグルグルと喉を鳴らした。その晩もいつもと変わらず西のかたわらで丸まって眠り、朝忙しそうに出て行く西を、いつもと変わらず布団の上から見送った。その日から変わったことといえば、もうポピーとは呼ばれず、ゲーテさんと呼ばれることになったくらいである。
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