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夢の始まり

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 十年前、アントン伯爵家は取り潰しの危機を迎えていた。
 フランシーナ八歳のときだ。


「皆……すまない。私が不甲斐ないばかりに、こんなことに」
  
 父の預かり知らぬところで膨らんでいた経費に、年々少なくなる領地収入。いつの間にか赤字は膨らみ続け、とうとう首が回らないところまで来てしまっていた。
 
 力無く項垂れる父に、滲む涙を拭う母。
 しんと静まり返った使用人達。 
 皆で、ただ絶望しながら待つしかなかった。アントン伯爵家の存続について、可否が記された通知書が届くのを。
   

「お待たせいたしました、アントン伯爵……って、なんですか、この雰囲気は!」

 崖っぷちのアントン伯爵家に城から派遣されてきたのは、一人の男性事務官だった。
 
 明るく、声の大きな男だったのを覚えている。
 大股で颯爽と歩く姿は、気落ちしきったアントン伯爵家の者達とはまるで対照的で。

 その男が屋敷の扉を開けただけで、中の空気はガラリと変わったように感じた。
 少なくとも、子供だったフランシーナには。

 彼は屋敷のどんよりとした暗さに引いていた。

「なぜこんなに暗いんです!? 皆で怖い顔をしていては、娘さんも怯えてしまうでしょう?」
「……すまないが、落ち込まずにはいられないのだよ事務官殿。どうせ、君は我が家への通知を持ってきたのだろう?」
 
 事務官の彼は、高級感のあるボルドーのガウン姿で、手には物々しい封筒を持っていて。
 その封筒が何なのか、フランシーナでも容易に分かった。父が怯えながら待ち構えていた通知書だ。

「さあ、ひと思いに通知書を読み上げてくれたまえ。どうせアントン伯爵家については『存続不可である』とでも書かれているのだろう? そうなれば私は責任を取って首をくくらせていただこう。さあ……」
「待って待って! 物騒なことを言ってないで、落ち着いて下さいよアントン伯爵」

 父をなだめようと、事務官は急いで通知書の封を開ける。
 そして中の文書を広げると、直接それを父へ手渡した。読み上げるよりも早いと踏んだのだろう。

「…………何? 嘘だ、そんなはずは」
「落ち着きましたか、アントン伯爵」

 目を瞬かせる父の隣で、事務官の男は満足気に微笑む。
 その声色は、とても優しい。
  
「落ち着けるものか。だって信じられない、我が家には大赤字が――」
「大丈夫です。これから大変にはなりますが、私供と一緒に赤字を回収いたしましょう」
 


 
 結論から言うと、アントン伯爵家取り潰しの危機は免れた。
 この事務官が、ここ数年における報告書の不自然さに気がついてくれたのだ。

「五年ほど前から――アントン伯爵家の収支報告書が狂い始めたのですよね」
「五年前? 私も報告書には目を通していたが、おかしいところなどは……」
「どうも違和感がありまして、僭越ながら調べさせていただきました。ちょうど、貴方の弟君が、領地経営に関わり始めた頃からのようです」
「弟が?」

 父の弟である叔父が名乗りを上げたのは、事務官の言うとおり、その頃から五年ほど前のことだった。
「私にも仕事が欲しい」「家を継げないのなら、何か肩書きを」と、急にやる気を見せたのだ。

 お人好しな父・アントン伯爵は、さっそく叔父に領地での管理を任せた。
 彼がズブの素人であったとしても、現地にはずっと共にやってきたベテランの使用人達もいる。心配はないだろうと……安易に信用したのがいけなかった。
 
「その頃から、例年と比べるとありえないほど高額な経費が報告され始めています。ずっと安定していた領地収入も、ジワジワと減り続けている」

 おかしく思った事務官が調べ上げたところ、叔父は膨大な遊興費を経費として計上したうえ、収益も改ざんして報告していた。
 そして未報告分の収入は彼の懐に入り、アントン伯爵家へと知らされてはいなかったという。

「念のために領地にある屋敷も確認させていただきましたが、なんと正しい帳簿もひっそりと存在しておりましたよ。
 弟君から報告されていたものとは全く違ったものでした。密告しようとした使用人が、裏で記録し続けていたのでしょうね」
 
 アントン伯爵家の資産は吸い取られ、叔父の個人資産だけが膨らんでいった。
 そのことを諌める使用人は容赦なく辞めさせられ、やりたい放題であったらしい。

「この件は、弟君の資産からアントン伯爵家へ資金を戻せば、それで解決と致しましょう。足りない赤字分はこれから先、彼に生涯をかけて支払っていただくことになります」
「だ、だが、弟はこれからどうなって――」
「アントン伯爵、あなたの罪は甘いことです。弟君に甘い、数字にも甘い、確認も甘い。その甘さが伯爵家の危機を招いたこと、お忘れなきよう」

 キッパリと言い切った事務官は、くるりと向きを変えたと思うと、こちらへゆっくり歩み寄った。
 そして八歳のフランシーナに目線を合わし、安心させるように微笑みかける。

「怖かっただろう。大丈夫だよ、もう終わったからね」
「あ、あの! ありがとうございます、事務官さま。私達のために……」
「僕達はこれが仕事だから、当たり前のことをしたまでだよ。君が笑顔になって良かった」

 彼に言われてやっと気付いた。
 自分の顔に、笑みが戻っていることに。そして頬をつたう安堵の涙にも。

 その涙を、事務官はハンカチで優しく拭ってくれる。
 
「わ、私、事務官さまに何かお礼を……」
「ははは! お礼なんかいらないよ。今度は君が、困っている人を助ければいい」

 そう言い残して、明るい事務官は去っていった。
 ボルドーのガウンをなびかせて。
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