深川あやかし屋敷奇譚

笹目いく子

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化け猫こわい(三)

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「おみょうさま、何をしていらっしゃるんですか!」

 翌朝、台所でお江津と朝餉の支度をしていたお凛は、板敷に現れたおみょうを見て裏返った声を上げた。
 
「何か手伝いをしようかと……」

 きりりと襷をかけたおみょうが控えめに言う。

「とんでもありません。滅相もございません。お武家のお方がこんな台所にいらしちゃいけません!寒いですし」

 お江津と卒倒しそうになりながら口々に言うと、娘はなだらかな肩をますます下げてか細く言った。

「しかし、世話になっている身の上であれば、何もしないのは気が引けて」

 お凛はお江津えつと顔を見合わせた。ご正室付きの奥女中といっても色々あろうが、身近に仕える立場のお女中は話し相手や相談相手が主な役目で、間違っても炊事や掃除などの下働きなどすまい。おみょうの白魚のような両手を見ても、水仕事とは縁がなかったことは容易に見て取れた。

「それはその、もったいないお心遣いとは存じますが……」

 二人が大いに戸惑っているのを察したらしく、おみょうが済まなそうに身を縮めた。

「ーーああ、そうでしたね。祟られている者がうろうろとしていては、落ち着かぬでしょう。申し訳ないことをしました」

 あ、とお凛は息を飲んだ。おみょう様は、お寂しいのだ。不安なのだ。化け猫に祟られていると周囲から恐れられ、敵意を向けられ、孤独なのだ。人恋しくていらっしゃるのだ……
 当年三十のお江津は、ふっくらとした人のよさそうな丸い顔に小さく苦笑いを浮かべていたが、それじゃあ、と思い切ったように言った。

「お凛と一緒に、器を棚からお出しいただけますか?ついでに、そこの勝手口の外で葱を育てておりますんで、二本ほど抜いてきていただけると有難いんでございますが」

 おみょうは繊細な光を浮かべる双眸を見開くと、すうっと頬を上気させた。

「お任せあれ」

 生まれてはじめてお使いを頼まれた子供のように、白い歯を零してこちらを見た娘に、お凛も思わず笑い返す。
 おみょう様、何だか好きだわ、と思った。

***

「お前たち、なんつうことをおみょう様にさせておるんだ!」

 朝餉の支度が整った居間に欠伸をしながら入ったかと思ったら、悲鳴を上げて台所へすっ飛んできたのは仙一郎である。

「おみょう様が、め、飯なんぞをよそっておられたぞ!飯だぞ飯!なんつう罰当たりな!胃がでんぐり返るかと思った!」

 わなわなとふるえながら、胸を押さえて喘いでいる。

「おみょう様がどうしてもとおっしゃったんですよ。いいじゃありませんか、細かいことは。楽しそうでいらっしゃるし」
「お前たち、長岡様に手討ちにされたいのか?私は嫌だぞ。絶対にやるぞあの人は。大根でも斬るみたいにこう……」

 そう言いかけて、仙一郎ははっと口を噤んだ。見れば、台所に現れたおみょうがこちらをうかがっている。

「……あのう、仙一郎どの。私が無理を申したのです。どうか叱らないでやってください」
「滅相もございません。はい、もう、叱るなんぞとんでもありません」

 ささ、どうぞ、朝餉にいたしましょう、と額の汗を拭いながら仙一郎が言うと、おみょうの足元にまとわりついていたお玉が、腹減った、とでも言うようにのんきな声でみゃあと鳴いた。


「ーーうまい。実に美味でございます。うん、『平清』の板前も真っ青な味でございますねぇ」

 先ほどの動揺はどこへやら、仙一郎は汁椀の味噌汁をすすってはうっとりと嘆息した。

「仙一郎どの。私はただ、葱を抜いて参っただけなのですが……」
「何をおっしゃいますか。おみょう様の選んだ葱だから美味なのです。葱もおみょう様に選ばれたと思えば、我が葱人生に悔いなしとまぁ、本望にございましょう。この飯もまた米の一粒一粒が輝いておりますようで……」
「それは私が炊いたんですが」給仕をするお凛がぼそりと言う。
「いいんだよ。よそったのはおみょう様なんだから」

 上座で膳に向かっていたおみょうは、無礼に気を悪くするでもなくおかしそうに微笑んでいる。何とも心の広いお方である。
 
「……のう、仙一郎どの。あなたは天眼通と噂されているそうですが、まことなのですか?」

 やわらかな声で、不意に娘が問うた。

「いやぁ、世間様はそんな風に呼んで下さっておりますが。どうでございましょうねぇ」

 珍しく謙遜して主がくすぐったそうに言う。

「……では、このお玉が本当に化け猫なのか、私が化け猫の祟りを使役する者なのかどうか、わかりますか」

 居間に、しんと沈黙が広がった。

「さぁて……そうですねぇ」

 息詰まるような間があってから、仙一郎がゆっくりと口を開いた。

「本当だったら、どうなさいます?お玉を殺して、おみょう様はお国元へお戻りになり、尼にでもなられますか」

 お凛はぎょっとして目を剥いた。なんという無礼なことを。しかし娘は激昂するでもなく、じっと主の顔を眺めて何事かを考え込んでいた。

「ーーいいえ。嫌です」ぽとりと、柔らかな形の唇から言葉が零れ落ちた。「私はこの子を失いとうない。殿とお別れしとうない……」
「それでしたら、化け猫が祟っていようと、おみょう様が祟っていようと、どうでもいいんじゃないですかね。話は簡単ですな。大きな顔していらっしゃったらいいんですよ」

 飯を口に運びながら、無責任なことをあっけらかんと言ってのけるので、おみょうが苦笑いした。

「長岡様がお聞きになったら雷が落ちます」
「あのお方はねぇ、どうもこう、四角四面そうでいらっしゃいますな。忠義なお侍様の鑑でおられるんでしょうが、もうちょっと人生楽しんだらいいのにねぇ。お若いのに、眉間に皺が寄ってましたもんね。ま、私みたいなどら息子がお侍だったら、お家があっという間に潰れるでしょうから、丁度いいんですかね」

 調子に乗ると叱られますよ、とお盆で主の膝を小突いてやろうとした時、くくっ、と小さな笑い声が耳に届いた。見れば、おみょうが唇を指先で軽く押さえ、肩をふるわせて笑っているのだった。
 そこだけ光が差したように明るくなった気がして、お凛はつい見惚れた。なるほど、これはお殿様も夢中になるに違いない。ふと横を見れば、おみょう様の後光に魂を抜かれたような仙一郎が、唇の端から米粒をこぼしそうになっている。染吉と梅奴に言いつけてやろうかと考えながら、お盆でごつんと膝を突くと、青年は慌てて口を閉じた。しかし再びおみょうを忘我の体で見詰め、いつの間にかお玉に焼き魚を攫われたことにも気づかないのであった。

***

 夕刻、入船町の魚屋へ魚介を求めに行くというと、おみょうは好奇心に目を光らせた。

「魚屋というと、どんなものを売っているのですか?」
「色々ございます。何しろ深川は漁師町でございますからね。さざえに蛤、牡蠣はもちろん、きすに石鰈いしがれいあじにほうぼう、あいなめ、こちに黒鯛、何でもござれです」
「まぁ」

 感心したように娘が目を見開いた。

「同行しても構いませんか」
「えっ……魚屋へですか!? でも、その、荒っぽい棒手振りも多いですし、騒々しいですよ?」
「構いませぬ。お屋敷にいては見られないものですから、行ってみたい。邪魔にならなければ……」
「もちろんです!ちっとも邪魔なんかじゃございません!」

 おみょう様は意外とお転婆なお方らしい。お凛は笑いを堪えて、嬉しそうなおみょうをそうっと眺めた。
 つるべ落としの夕闇が迫る中、赤く染まった堀割を渡りながらおみょうと歩いた。風はすっかり冬の凍風いてかぜで、綿入れを着込んでいても頬がひりひりと痺れてくる。だがおみょうに尋ねられるまま、町のあれこれを説明しながら進むのは楽しかった。白い息をふわりふわりと頬にまとわりつかせているおみょうを眺めると、お凛は女同士の気安さでつい尋ねていた。

「あのう、おみょう様、お殿様ってどんなお方なんですか?素敵なお方ですか?」

 えっ、とこちらをみた娘に、お凛ははっと我に返った。

「あ、し、失礼申し上げました!つい……」お武家のお方を掴まえて、恋話でもなかろう。自分の頭を小突き倒したい気分に襲われたが、しかしおみょうは叱りつけてはこなかった。

「ど、どんな……」それどころか、きらきらと目を潤ませて、はにかみながらしきりと袂を手で弄んでいる。

 あら、おみょう様ったら惚気のろけたいのだろうか。まるで町娘みたい、と頬が緩む。

「その、ご立派なお方でいらっしゃいます。おやさしくて、文武に秀でておいでになります。それから……」
「見目麗しいのでいらっしゃいますね?」思わず食いつくと、ぽっとおみょうの頬が染まった。茜色の夕日の中でも、初々しい血の色がはっきりと見て取れた。
「……そのう。恐れ多いことです……」

 なるほどなるほど。眉目秀麗で文武両道で人格者でいらっしゃると。おまけにお殿様。うーん、非の打ち所がない。どこかのがらくた蒐集が趣味の道楽息子では、とても太刀打ちできなさそうだ。

「野山を歩いて草花を蒐集なさり、記録の絵をお描きになるのを好まれます。野鳥や虫の観察をなさるのもお好きです。江戸郊外の山野にお出かけになると、とてもお幸せそうでいらっしゃいます。皆を楽しませようと、そこで野点のだてをなさることもあります」
「へぇ、そうなんですか。風流ですねぇ」

 にこにこと顔を綻ばせるおみょうを見ていると、お凛まで笑顔になるようだ。

「失礼ですが……お年はお幾つになられるんですか?」
「今年御年二十六才におなりです。御年十七でご家督をお継ぎになられ、お若い時分から名君と謳われるお方でした」
「あら、そんなにお若いお殿様なんですね!」

 己の想像していたお殿様像とはずいぶん違うらしい、とお凛は脳裏に描いていたお殿様の絵を大幅に描き直した。
 
「ですが、その……ご正室様がおいでなんですよね。私、お武家様のことはよく存じませんが……その辺り、お辛くありませんか?」

 おそるおそる、しかしどうしても気になることをずばり尋ねると、おみょうは前を向いたまま、ほう、と短く嘆息した。

「辛く、ないことはありません。しかし、格式のあるご家門では、ご正室様も同じ格式のお家からお迎えしなくてはならないのです。私など大した家の出ではございませんし、まして、十四でお輿入れなされた奥様でおられますから、今更……」

 そう呟いて、遠い目をする。

「殿は、どうか負けてくれるなとおっしゃいました。あの方は、決して我儘を仰せになられませぬ。ご自分のお立場をわきまえておられ、下々を困らせることはなさいません。ですが、私を側妾に上げることだけは、我儘を通したとおっしゃいました……」

 独り言のような囁きが、ぎゅっと胸を締め付ける。

「ですから、私は負けてはならぬのです」

 目に凍みるほど冷たい空気に、静かな熱を孕む声がかすかに響く。
 妙に視界がぼやけてきて、道の先の魚屋の明かりが滲んで見えた。


ーーその夜、屋敷から猫のお玉の姿が消えた。
 お殿様のお屋敷で、人が一人化け猫に殺されたらしいという話を聞いたのは、翌朝のことだった。

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