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8.わかってあげたい
8-④
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「暑いな」
宙に放たれたことばは、シュウには届かないまま道路へ落ちた。権利、ということばが脳裏によぎって、それ以上はなにも言えなくなってしまう。この一方通行の会話を、俺たちはもう何回も続けている。
今日は特別に暑かった。さっき携帯でニュースを確認したら、埼玉のほうで過去最高とおなじ気温を記録したらしい。鉄壁の越後山脈でもその熱波は防ぎきれずに、この街も今年最高の暑さのなかにあった。
近くのスーパーでアイスを買って、その店の前のベンチにふたりで座った。ばかみたいに高い気温にやられたのか、今日の俺はテンションが高かった。空気に質量を感じるほど暑い日にランをしていると、その空気の重さを肩で押そうと力をこめる自分がいることに気づく。その力があれば、青い空の向こうまでどこまでも飛んでいけそうな気分になるのだ。
炎天下、日陰になっているスーパーの軒先に座りながら、俺が買った分けられるアイスの半分をシュウに手渡す。
「お金払うよ」
「いいよ、今度なんかおごって」
見える景色に樹々はないのに、街には蝉の声がこだましている。 車どおりの激しい道路と、ずらりと並んだ家や店の向こうに、巨大な入道雲が育っていた。夕方と言えども、空はまだまだ明るい。夏の昼間は長いのだ。ときおりそばの自動ドアが開いて店内の冷たい空気が流れ出てくる以外は、涼しい風すら吹かなかった。頬を汗が伝う。腕の産毛が、汗できらきらと光っていた。
アイスの蓋を開けたシュウが、腕をあげたことで見えそうになった手首を隠すように袖を引っ張った。右の袖からは、細い手首が見えたままだ。
最近のシュウは明るく見えた。それでも、長袖の下には赤い傷があるのだろうか。自分を傷つけるという気持ちを想像する。痛いのは、だれだってつらいに決まっている。教科書のページで指先を切ったときの痛みですら、考えるだけで嫌な汗が出る。
いつか美奈子の言ったことばを思いだす。「みんなわかんないんだ」、と彼女は言った。その表情を、忘れたことはない。あんな顔をするような思いを、シュウも抱えているのかもしれない。
「なあ」
「うん?」
チューブ型のアイスに集中したシュウが、うわの空で反応する。
「……なんで、それすんの」
しばらく間があってから、なんでだろうね、とシュウは遠くを見ながら言った。視線はそのまま、ひと口アイスを吸ってから、手元でそれを弄んでいる。
またふらりとかわされるのか。諦めにも似た感情が浮かんできて、シュウとおなじように溶けはじめたアイスを吸う。沈黙が続いて、アイスも食べ終わってしまいそうだった。あと五秒数えたら帰ろうと言おう。そう決めて頭のなかに数字を描きはじめたとき、シュウが身動ぎしたのがわかった。
「……明はさ、なんであんなに必死になって走るの」
「なんでって」
改めて訊かれると答えに困った。走ることに理由が必要だと思ったことがない。走りたいから走る、そうやっていままでやってきた。シュウは、真剣な瞳でこちらを見ている。考えなくてはいけないのだ。シュウが、自分をさらそうとしてくれているのだから。
これまでの記憶を手繰るように、宙を見つめてことばを探す。俺は、どうして走っているのだろう。左足を踏みだして、風を感じて。この空のどこまででも飛んでいけそうな気分を思いだす。これが、ほんとうに答えなのかはわからない。それでもいまの俺に言えることはひとつだけだった。
「走ってると、いろんなことどうでもよくなるんだ。なにが嫌なのかもわかんないけど、いろいろあるだろ、みんな」
前を見たまま、ことばを選びながら声に乗せた。途切れとぎれのことばに、シュウがうん、とちいさく返事をする。シュウは、やさしげに笑っていた。
「それと一緒だよ。みんな、どうしようもない気持ちになったとき極端な行動とるでしょ。暴飲暴食したり、ものにあたったり、だれかに手あげたりさ」
シュウが左腕にそっと触れる。アイスのチューブについた水滴で、長袖のシャツが湿り、色が変わった。
「俺は、そういうのが自分の腕に向かってるだけだよ」
いつかも見た、自分を嘲笑うみたいな表情をしてシュウは行き交う車の群れを見ていた。自動ドアが開いて、店内から客と冷たい空気を吐きだす。
「明はスポーツで吐き出してるから健全に見えるだけ」
ちょっと走りすぎだけどね。そう言ってシュウは笑っているけれど、俺が走っていることも、シュウが自分を傷つけることも、暴力をふるうことと同じだと言っているのだ。俺はこれまで、ひとやものにあたる人間に出会ったことがなかった。それを幸いだとも思わないくらい、そんな人間とは無縁の場所にいた。
「みんな一緒だよ」
あんなに走っているのにね、と言った母の声がこだまする。俺は、走ることで自分を逃避させていたのだろうか。そしてそれを、ひとの目に見える形で見せつけていたのだろうか。ひとの目に触れるような場所で、俺は自分のつらさをさらしていたのだろうか。
シュウは、だれにも言わずに、だれにも見せずに、自分ひとりで痛みを抱えている。言われて気づいた。俺はシュウのように隠しつづけることはできない。
「強いな、シュウは」
口にだしてみて、以前もおなじことを言ったような気がした。俺が走らずにはいられない気持ちのとき、シュウはだれにも知られずひとりで自分を傷つけていたのだ。どれだけの精神力があったら、そうすることができるだろう。俺には到底できないことだ。
「こんなしんどいの、ひとりで耐えてるなんてすごい」
ほんとうにすごいと思ったから出たことばだった。身近に感じていたシュウが、なんだかずいぶん高いところにいってしまったような気がする。
「……うん」
しばらく間があってから反応があった。シュウの顔が一瞬曇って、またいつもの笑顔に戻る。最近見ることができていた、たのしそうな笑いかたではない。心の奥を隠すような、形だけの、困ったように眉をさげるシュウの笑顔だ。その様子を見て、寒気が背筋を走る。どうしてシュウは、こんな顔をするのだろう。
「雨だ」
うつむいていたシュウが顔をあげる。
黒っぽい入道雲がいつのまにか真上にきていて、そこから乾いた雷の音がした。すぐに地面に雨のつぶが落ちてくる。正直、間を持たせられたことにほっとしていた。
「夕立かな。すぐやむよね」
コーヒー牛乳みたいになったアイスを飲み干して、シュウが笑う。どんなときでも、こいつは笑っているのだ。顔は笑って、心では、いったいどんな表情をしているのだろう。
しばらく視界も曇るほどの雨を眺めていた。足元を、流れになった雨粒が濡らしていく。雨は、シュウの言うとおりほんとうにすぐやんだ。湿度があがって、すこし涼しくなった空気が肺を満たす。
「俺、お前のこと、ほんとうにすごいと思うよ」
それ以外のことばが見当たらなかった。どれだけの努力を、どれだけの苦痛を、その細い肩に背負っているだろう。それを見せようともしないシュウを、心から尊敬した。
「そんなことないよ」
笑ってシュウが応える。さみしそうに見える笑顔だった。雨の気配が完全に消えて、蝉の声がまた戻ってくる。自嘲するように笑っていたさっきより、シュウのことを遠く感じた。
宙に放たれたことばは、シュウには届かないまま道路へ落ちた。権利、ということばが脳裏によぎって、それ以上はなにも言えなくなってしまう。この一方通行の会話を、俺たちはもう何回も続けている。
今日は特別に暑かった。さっき携帯でニュースを確認したら、埼玉のほうで過去最高とおなじ気温を記録したらしい。鉄壁の越後山脈でもその熱波は防ぎきれずに、この街も今年最高の暑さのなかにあった。
近くのスーパーでアイスを買って、その店の前のベンチにふたりで座った。ばかみたいに高い気温にやられたのか、今日の俺はテンションが高かった。空気に質量を感じるほど暑い日にランをしていると、その空気の重さを肩で押そうと力をこめる自分がいることに気づく。その力があれば、青い空の向こうまでどこまでも飛んでいけそうな気分になるのだ。
炎天下、日陰になっているスーパーの軒先に座りながら、俺が買った分けられるアイスの半分をシュウに手渡す。
「お金払うよ」
「いいよ、今度なんかおごって」
見える景色に樹々はないのに、街には蝉の声がこだましている。 車どおりの激しい道路と、ずらりと並んだ家や店の向こうに、巨大な入道雲が育っていた。夕方と言えども、空はまだまだ明るい。夏の昼間は長いのだ。ときおりそばの自動ドアが開いて店内の冷たい空気が流れ出てくる以外は、涼しい風すら吹かなかった。頬を汗が伝う。腕の産毛が、汗できらきらと光っていた。
アイスの蓋を開けたシュウが、腕をあげたことで見えそうになった手首を隠すように袖を引っ張った。右の袖からは、細い手首が見えたままだ。
最近のシュウは明るく見えた。それでも、長袖の下には赤い傷があるのだろうか。自分を傷つけるという気持ちを想像する。痛いのは、だれだってつらいに決まっている。教科書のページで指先を切ったときの痛みですら、考えるだけで嫌な汗が出る。
いつか美奈子の言ったことばを思いだす。「みんなわかんないんだ」、と彼女は言った。その表情を、忘れたことはない。あんな顔をするような思いを、シュウも抱えているのかもしれない。
「なあ」
「うん?」
チューブ型のアイスに集中したシュウが、うわの空で反応する。
「……なんで、それすんの」
しばらく間があってから、なんでだろうね、とシュウは遠くを見ながら言った。視線はそのまま、ひと口アイスを吸ってから、手元でそれを弄んでいる。
またふらりとかわされるのか。諦めにも似た感情が浮かんできて、シュウとおなじように溶けはじめたアイスを吸う。沈黙が続いて、アイスも食べ終わってしまいそうだった。あと五秒数えたら帰ろうと言おう。そう決めて頭のなかに数字を描きはじめたとき、シュウが身動ぎしたのがわかった。
「……明はさ、なんであんなに必死になって走るの」
「なんでって」
改めて訊かれると答えに困った。走ることに理由が必要だと思ったことがない。走りたいから走る、そうやっていままでやってきた。シュウは、真剣な瞳でこちらを見ている。考えなくてはいけないのだ。シュウが、自分をさらそうとしてくれているのだから。
これまでの記憶を手繰るように、宙を見つめてことばを探す。俺は、どうして走っているのだろう。左足を踏みだして、風を感じて。この空のどこまででも飛んでいけそうな気分を思いだす。これが、ほんとうに答えなのかはわからない。それでもいまの俺に言えることはひとつだけだった。
「走ってると、いろんなことどうでもよくなるんだ。なにが嫌なのかもわかんないけど、いろいろあるだろ、みんな」
前を見たまま、ことばを選びながら声に乗せた。途切れとぎれのことばに、シュウがうん、とちいさく返事をする。シュウは、やさしげに笑っていた。
「それと一緒だよ。みんな、どうしようもない気持ちになったとき極端な行動とるでしょ。暴飲暴食したり、ものにあたったり、だれかに手あげたりさ」
シュウが左腕にそっと触れる。アイスのチューブについた水滴で、長袖のシャツが湿り、色が変わった。
「俺は、そういうのが自分の腕に向かってるだけだよ」
いつかも見た、自分を嘲笑うみたいな表情をしてシュウは行き交う車の群れを見ていた。自動ドアが開いて、店内から客と冷たい空気を吐きだす。
「明はスポーツで吐き出してるから健全に見えるだけ」
ちょっと走りすぎだけどね。そう言ってシュウは笑っているけれど、俺が走っていることも、シュウが自分を傷つけることも、暴力をふるうことと同じだと言っているのだ。俺はこれまで、ひとやものにあたる人間に出会ったことがなかった。それを幸いだとも思わないくらい、そんな人間とは無縁の場所にいた。
「みんな一緒だよ」
あんなに走っているのにね、と言った母の声がこだまする。俺は、走ることで自分を逃避させていたのだろうか。そしてそれを、ひとの目に見える形で見せつけていたのだろうか。ひとの目に触れるような場所で、俺は自分のつらさをさらしていたのだろうか。
シュウは、だれにも言わずに、だれにも見せずに、自分ひとりで痛みを抱えている。言われて気づいた。俺はシュウのように隠しつづけることはできない。
「強いな、シュウは」
口にだしてみて、以前もおなじことを言ったような気がした。俺が走らずにはいられない気持ちのとき、シュウはだれにも知られずひとりで自分を傷つけていたのだ。どれだけの精神力があったら、そうすることができるだろう。俺には到底できないことだ。
「こんなしんどいの、ひとりで耐えてるなんてすごい」
ほんとうにすごいと思ったから出たことばだった。身近に感じていたシュウが、なんだかずいぶん高いところにいってしまったような気がする。
「……うん」
しばらく間があってから反応があった。シュウの顔が一瞬曇って、またいつもの笑顔に戻る。最近見ることができていた、たのしそうな笑いかたではない。心の奥を隠すような、形だけの、困ったように眉をさげるシュウの笑顔だ。その様子を見て、寒気が背筋を走る。どうしてシュウは、こんな顔をするのだろう。
「雨だ」
うつむいていたシュウが顔をあげる。
黒っぽい入道雲がいつのまにか真上にきていて、そこから乾いた雷の音がした。すぐに地面に雨のつぶが落ちてくる。正直、間を持たせられたことにほっとしていた。
「夕立かな。すぐやむよね」
コーヒー牛乳みたいになったアイスを飲み干して、シュウが笑う。どんなときでも、こいつは笑っているのだ。顔は笑って、心では、いったいどんな表情をしているのだろう。
しばらく視界も曇るほどの雨を眺めていた。足元を、流れになった雨粒が濡らしていく。雨は、シュウの言うとおりほんとうにすぐやんだ。湿度があがって、すこし涼しくなった空気が肺を満たす。
「俺、お前のこと、ほんとうにすごいと思うよ」
それ以外のことばが見当たらなかった。どれだけの努力を、どれだけの苦痛を、その細い肩に背負っているだろう。それを見せようともしないシュウを、心から尊敬した。
「そんなことないよ」
笑ってシュウが応える。さみしそうに見える笑顔だった。雨の気配が完全に消えて、蝉の声がまた戻ってくる。自嘲するように笑っていたさっきより、シュウのことを遠く感じた。
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