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9.邂逅
9-①
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お盆をすぎると、季節は一気に秋へと移り変わったように感じた。昼間はあいかわらずいらいらするほど暑いけれど、夕方になるとぐっと涼しくなるのだ。日が短くなって、夜がやってくるのが早いぶん、夏らしい暑さの印象は日に日に薄れていく。
三週間近くつづいた補習も終わり、学校にいく理由もなくなった俺は、毎日地元の土手を走っていた。日本で一番長い川に合流する水の流れを見おろしながら、草いきれのなかをぐるぐると走る。
太陽に向かって走っていると、左側に川が、右側にはかつて通っていた中学校が見えた。このあたりにはちいさな橋が何本も架かっていて、ふたつの橋を渡って対岸とこちらの岸とを円に見立てて走ると、一周でちょうど一キロになるのだ。中学のころ、秋の体育はそのコースを利用して長距離の練習をしていた。
中学校のグラウンドでは野球部とサッカー部、そして陸上部が練習しているのが見えた。ノックを受けているのだろうか、ひどく崩れて聞こえる「お願いします」の声が、白いユニフォームの群れから響く。サッカーボールを追う色とりどりのひとだかりの周りには、砂煙があがっていた。それに比べて、陸上部はしずかだ。それぞれが黙々とトレーニングをしている。長距離を専門にしているらしい部員の姿は、土手でなんども見かけた。
校舎からは、ひっきりなしに個人練習をする吹奏楽部の楽器の音が聞こえる。暑さのなかで、その音は耳にべたついて聞こえた。
この場所を走っていると、あたりまえのように中学のころを思いだす。けれど頭を埋め尽くすのは、記録が出ないことにあえいだ部活の光景ではなく、美奈子の泣いた顔だった。
金管、木管、打楽器、たくさんの音が聞こえてくるなかで、やはりクラリネットの音色だけははっきり聞きとることができた。その音がいまだに自分にとって美奈子の存在がおおきなものであることを実感させて動揺する。その揺らぎを振り払うように、走る速度をぐっとあげた。
美奈子の傷を思うとき、いつもシュウの傷を思った。俺の補習が終わると同時にシュウの受けていた講習も終わり、ふたりですごす時間はまるではじめから存在しなかったかのように遠いものになっていた。
一緒にアイスを食べたのは、自分を傷つけることも、走ることも一緒だと、シュウがそう言った日が最後だった。それから、シュウは俺が走り終わるのを待っていることがなくなった。なんとなく、だけれど、避けられているのかもしれないと思う。あの日までは、シュウはただ玄関に座っていることすらたのしそうに俺を待っていたのに。一度は近づけたと思っていたシュウの心が一気に遠くなったことが直感でわかっていた。どこかさみしく思いながら、会いにいくことも、連絡をとることも躊躇していた。
夏休みは、まるで溝みたいだ。理由もなく顔を合わせるだけの勇気が、俺にはなかった。
「明くん、また箸が止まってる」
シュウのことをいつでも考えているせいか、俺はずいぶんぼうっとしていることが多くなったらしい。本格的な夏休みに入って帰宅時間が早くなった俺のために、母は仕事から帰ってくるとたくさんの料理を作ってくれたのに、その食事の最中、気づいたら茶碗を持ったまま動いていないことがあった。
「おにいちゃん前もそんなことあったよね、受験のときだっけ」
俺に注意を向ける母親を恨めしそうに見ながら、樹里がそう言った。心臓がひとつおおきく脈打つ。あのころ、毎日眠れずにひたすら机に向かっていた。まだ小学生だった樹里の目には、俺はどんなふうに映っていたのだろう。一緒に暮らしていたはずなのに、樹里の様子も、両親の反応も、あまりよく覚えていない。けれど、妹が受験の話をしはじめたときの母親の顔を見れば、どれだけ心配をかけていたかはよくわかった。
「そうだ、樹里、夏休みのうちにどこかいくか」
「ええ、いいよ、友達と遊ぶし」
父親が唐突に話題を変えたのも、たぶん俺のためだ。家にいるとみんなに気を遣わせてしまうように思えて、その居心地の悪さを振り払うために、俺は走っていた。
正午になると、防災無線で町中に音楽が鳴る。中学校から聞こえてくるざわめきの向こうにその音が聞こえて、ゆっくりと足を止めた。昼には家に帰って飯を食べる。そうして甲子園でも見ながらだらだらとすごして、涼しくなった夕方にもう一度走りに出るのが習慣になっていた。
高校に通学するために市内へ出ると、地元の商店街とはどんどん縁遠くなっていく。自転車のときは裏道をいくし、バスに乗るときもただアーケードの前を通過するだけだ。自宅から中学校までの道のりも、商店街からは外れていた。
「また走りにいくんでしょ。おつかいにいってくれる?」
朝、母はそう言って俺に財布を寄越した。商店街の中心にある、ちいさな昔ながらのパン屋で買い物をしてほしいということだった。母に頼まれたあまい三角の形をしたパンは、子どものころからよく食べていた思い出の味だ。店には子どものころ、樹里と一緒に何度も通った。
なにか言いたげな母の顔が、俺の心を読むかのようにじっとこちらを見る。そういえば、こんなふうに見られることを嫌って母の顔を見れないこともあった。このひとは、なにも言わないのにこちらの言いたいことを察してしまうことがあるのだ。こぶしひとつ分低いところにある目をしっかり見つめ返すと、母は「うん」とうれしそうにうなずいて、いってらっしゃいと手を振った。
土手をおりて中学校とそのそばの公園の前を抜け、ひととおりのほとんどない商店街を歩いていく。このまま歩いていけば、家に着くころにはいいクールダウンになっているだろう。アーケードで陽射しは遮られていても、運動したばかりの身体からは汗が噴きだしていた。
パン屋は記憶のなかにあるのと変わらない姿でそこにあった。自動ドアを抜けて、顔をあげる。いらっしゃいませ、と声がしたレジのほうを見て、俺は、その場に立ち尽くした。
三週間近くつづいた補習も終わり、学校にいく理由もなくなった俺は、毎日地元の土手を走っていた。日本で一番長い川に合流する水の流れを見おろしながら、草いきれのなかをぐるぐると走る。
太陽に向かって走っていると、左側に川が、右側にはかつて通っていた中学校が見えた。このあたりにはちいさな橋が何本も架かっていて、ふたつの橋を渡って対岸とこちらの岸とを円に見立てて走ると、一周でちょうど一キロになるのだ。中学のころ、秋の体育はそのコースを利用して長距離の練習をしていた。
中学校のグラウンドでは野球部とサッカー部、そして陸上部が練習しているのが見えた。ノックを受けているのだろうか、ひどく崩れて聞こえる「お願いします」の声が、白いユニフォームの群れから響く。サッカーボールを追う色とりどりのひとだかりの周りには、砂煙があがっていた。それに比べて、陸上部はしずかだ。それぞれが黙々とトレーニングをしている。長距離を専門にしているらしい部員の姿は、土手でなんども見かけた。
校舎からは、ひっきりなしに個人練習をする吹奏楽部の楽器の音が聞こえる。暑さのなかで、その音は耳にべたついて聞こえた。
この場所を走っていると、あたりまえのように中学のころを思いだす。けれど頭を埋め尽くすのは、記録が出ないことにあえいだ部活の光景ではなく、美奈子の泣いた顔だった。
金管、木管、打楽器、たくさんの音が聞こえてくるなかで、やはりクラリネットの音色だけははっきり聞きとることができた。その音がいまだに自分にとって美奈子の存在がおおきなものであることを実感させて動揺する。その揺らぎを振り払うように、走る速度をぐっとあげた。
美奈子の傷を思うとき、いつもシュウの傷を思った。俺の補習が終わると同時にシュウの受けていた講習も終わり、ふたりですごす時間はまるではじめから存在しなかったかのように遠いものになっていた。
一緒にアイスを食べたのは、自分を傷つけることも、走ることも一緒だと、シュウがそう言った日が最後だった。それから、シュウは俺が走り終わるのを待っていることがなくなった。なんとなく、だけれど、避けられているのかもしれないと思う。あの日までは、シュウはただ玄関に座っていることすらたのしそうに俺を待っていたのに。一度は近づけたと思っていたシュウの心が一気に遠くなったことが直感でわかっていた。どこかさみしく思いながら、会いにいくことも、連絡をとることも躊躇していた。
夏休みは、まるで溝みたいだ。理由もなく顔を合わせるだけの勇気が、俺にはなかった。
「明くん、また箸が止まってる」
シュウのことをいつでも考えているせいか、俺はずいぶんぼうっとしていることが多くなったらしい。本格的な夏休みに入って帰宅時間が早くなった俺のために、母は仕事から帰ってくるとたくさんの料理を作ってくれたのに、その食事の最中、気づいたら茶碗を持ったまま動いていないことがあった。
「おにいちゃん前もそんなことあったよね、受験のときだっけ」
俺に注意を向ける母親を恨めしそうに見ながら、樹里がそう言った。心臓がひとつおおきく脈打つ。あのころ、毎日眠れずにひたすら机に向かっていた。まだ小学生だった樹里の目には、俺はどんなふうに映っていたのだろう。一緒に暮らしていたはずなのに、樹里の様子も、両親の反応も、あまりよく覚えていない。けれど、妹が受験の話をしはじめたときの母親の顔を見れば、どれだけ心配をかけていたかはよくわかった。
「そうだ、樹里、夏休みのうちにどこかいくか」
「ええ、いいよ、友達と遊ぶし」
父親が唐突に話題を変えたのも、たぶん俺のためだ。家にいるとみんなに気を遣わせてしまうように思えて、その居心地の悪さを振り払うために、俺は走っていた。
正午になると、防災無線で町中に音楽が鳴る。中学校から聞こえてくるざわめきの向こうにその音が聞こえて、ゆっくりと足を止めた。昼には家に帰って飯を食べる。そうして甲子園でも見ながらだらだらとすごして、涼しくなった夕方にもう一度走りに出るのが習慣になっていた。
高校に通学するために市内へ出ると、地元の商店街とはどんどん縁遠くなっていく。自転車のときは裏道をいくし、バスに乗るときもただアーケードの前を通過するだけだ。自宅から中学校までの道のりも、商店街からは外れていた。
「また走りにいくんでしょ。おつかいにいってくれる?」
朝、母はそう言って俺に財布を寄越した。商店街の中心にある、ちいさな昔ながらのパン屋で買い物をしてほしいということだった。母に頼まれたあまい三角の形をしたパンは、子どものころからよく食べていた思い出の味だ。店には子どものころ、樹里と一緒に何度も通った。
なにか言いたげな母の顔が、俺の心を読むかのようにじっとこちらを見る。そういえば、こんなふうに見られることを嫌って母の顔を見れないこともあった。このひとは、なにも言わないのにこちらの言いたいことを察してしまうことがあるのだ。こぶしひとつ分低いところにある目をしっかり見つめ返すと、母は「うん」とうれしそうにうなずいて、いってらっしゃいと手を振った。
土手をおりて中学校とそのそばの公園の前を抜け、ひととおりのほとんどない商店街を歩いていく。このまま歩いていけば、家に着くころにはいいクールダウンになっているだろう。アーケードで陽射しは遮られていても、運動したばかりの身体からは汗が噴きだしていた。
パン屋は記憶のなかにあるのと変わらない姿でそこにあった。自動ドアを抜けて、顔をあげる。いらっしゃいませ、と声がしたレジのほうを見て、俺は、その場に立ち尽くした。
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