かあさんのつぶやき

114 カインとアベル

富子はいまだに失ってしまった清瀬の家を思い出す。

住み込みで芸者の仕事を何年もして、貯めたお金で買った家。

今住んでいるアパートよりも、居住年数は少ないのに

すぐに忘れてしまう富子にしては間取りやたたずまいを

鮮明に覚えていた。

住所さえ忘れているというのに。

そして、隣に並ぶ建売の住宅に住む人と自分とを比べ

みじめな思いに慕っていく。

時折、神様は不公平だとさえ思ってしまう。

定型発達の人と発達障害の自分。

3歳の時に近所の高校生のお兄ちゃんから拉致監禁された自分。

小学生の時から幻覚幻聴があった自分。

中学生1年生で村始まって以来の悪だと評価されていた自分。

中学2年生で、

「分裂症です。入院してください」

と、診断された自分。

高校を3回も退学させられた自分。

何度も何度も家出を繰り返し親は仕方なく諦めて、

東京にアパートを借りてやったのに自殺未遂をして

連れ戻された自分。

挙句にその時、17歳にも関わらず妊娠していた。

どう考えたって、スタート地点でこけてるじゃないか。

みんなが50メートルくらい走る技術や運動の良い習慣を身に着けているのに

自分は、基本的生活態度の歯を磨く、顔を洗う、整理、整頓、片づけさえできなかった。

ああああああ。

なんでこんな状態で生き続けていなきゃいけないんだろう。

自己憐憫にハマっていく。

お酒におぼれたんだって、確かにあの時、母がすい臓がんで死に、

その後、自分の子供が立て続けに二人死んで喪失感に苛まれていたとはいえ

それが癒えたら、生きていけるという簡単なものではなかった。


はい、はい、また、うまく生きられないことへのいいわけ、自己正当化、理由付けですか。

まじ、うぜーー。

いい加減にしろ。

そんなことをうだうだと考えていても何にも変わらないじゃないか。

変えられるものと変えられないものを見極めろよ。

富子は、可愛そうな子でうまくいかない日常からいまだにはみ出していますよ。

辛かったら泣けばいい。

苦しかったら、涙すればいい。

十分な程の逃れ道は供えられているでしょう。

水曜日、富子と和俊は精神科の病院に一緒に行くことが出来た。

富子の主治医は、患者から、

「怖い」

と、言われているみたいで

若くて大きな輝く瞳をした医者は、不安げに

「僕って怖い?」

と、富子に聞いてきた。

「え?どうしてですか?」

と、聞き返すと、悲しそうに本当に寂しそうに

「患者さんからそう言われているみたいなんだよね」

って。

患者にそんなこと普通聞く?

見境がつかないくらい主治医は困惑していたのかもしれない。

でも、その途端、富子の奇妙な癖が勃発。

その先生を大好きになったのだ。

「ねー、和俊、どうしてママは、

カインとアベルだとカインを」

「ペテロとパウロだとペテロが好きなんだろう?」

そうなのだ。

富子にとって、非の打ちどころのないような人には全く興味を示さなかった。

マリアよりはマリア・マグダラネを。

ヤコブよりエサウを。

サムエルよりはサウルを。

ヨナタンよりはアブサロムを擁護してしまうのだ。

この奇妙な認知の歪みを是正しない限り、

一生危ない人に惹かれ、安定した生活を望む事は出来ないのかもしれない。

もしも、和俊が普通に仕事をしていて、お嫁さんをもらって

子供もいたら、こんなに愛おしいと思うことさえなかったのかもしれない。

和俊がパソコンに向かって小説を書いている

「よく頑張っているな。一生懸命努力しているな」

そう思って、にこにこして見ていた。

その途端、

「なんだよーー」

不機嫌そうな顔で、眉間にしわを寄せて罵声を浴びせてくる。


「はー?なんでそうなるの?」


「ごめん、寝起きだから……」

寝起きなら何を言っても許されると思っているのかー。

ぐっと言葉を飲み込んだ。


「塩で味付けされた快い言葉を語るように心掛けましょう。

そうすれば，誰に対してもどのように答えるべきかが分かります」

コロサイ4章6節


和俊は、処方の副作用か、めっちゃ寝起きが悪い。

和俊は、学歴だけ見ると、中学校もまともに行っていない不登校である。

和俊は、共感できないほどアスペルガー症候群の発達特性。

和俊は…。

和俊は……。

だけど、無条件で大好きな世界でたった一人のかけがえのない息子である。

だーいすき。


沼田 和俊（ぬまた かずとし）46歳。

小宮 富子(こみや　とみこ)69歳。

毒親毒子ですが、

心から愛しています。

でも、マザコンにならないでくださいね。

神の過分のご親切がとどまりますように。


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