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Ⅱ.フィスタ
第8話 二人の王子と温室の泉②
しおりを挟む庭園の片隅には、幾つも同じ大きさの温室が並んでいる。その一つに入ろうとすると、王子は戸惑っていた。
「ここは、来客を楽しませるような温室ではないですが。よろしいですか?」
「⋯⋯私が入っても、大丈夫なのですか?」
「問題ありません。フィスタにしか意味のないものばかりです」
温室の中は蒸し暑く、土と草の匂いが充満している。
ぼくの姿を見ると、小さく並んだ容器の一つ一つを確認していた男が顔を上げた。
「イルマ殿下!」
「ご苦労さま、様子はどう?」
「先日、発芽したものは順調に育っています。日光と水の状態を変えたものは、隣の温室にありますので」
「ああ、そちらもこれから見に行くね」
男がぼくの隣に立つ王子の姿を見て、頬を赤く染めた。
「殿下、こちらは⋯⋯」
「スターディアの第2王子、シェンバーだ。突然やって来てすまない」
「と、とんでもございません。殿下にご満足いただけるようなものかどうか⋯⋯」
「興味深い。これは、何を育てているんだ?」
男が、はっとして黙り込んだ。
シェンバー王子は怪訝な顔をする。
「災害に強い穀物⋯⋯と言ったところでしょうか。まだ試作段階で、名前もついていません。彼らも研究途中なのです」
ぼくはそう言って、王子と共に温室を一巡りして、次の温室に向かった。ぼくが説明を受けている間、王子は隣で一緒に話を聞いている。3つの温室を巡って出てきた時には、二人ともすっかり汗だくだった。
ぼくたちは、温室を出たところにある小さな泉に向かった。
水に恵まれたこの国では、至る所に泉と井戸がある。女神の恩恵を受けて、泉からは滾々と清水が湧いていた。
シェンバー王子が水を飲んだ後に、ぼくは泉に手を浸した。湧き出る清水は冷たく、両手で掬い上げると喉を潤していく。勢いよく飲んだせいで、こぼれた水がシャツを濡らした。
「わっ! つめたっ⋯⋯」
口許を手で拭っていると、シェンバー王子が、じっとこちらを見た。
「どうかされましたか?」
「いえ⋯⋯ずいぶんと煽情的なお姿だな、と」
くすりと笑う王子の笑みは、淫靡な毒を含んでいた。
ぼくがはっとして自分の体を見れば、濡れたシャツの下から乳首が透けて見えている。
「こ、これは、水をかぶったから⋯⋯」
突然そんなことを言われて、顔が熱くなる。
「⋯⋯誘ってくださっているのかと思いました」
たじろぐぼくに、シェンバー王子はゆっくりと近づいてくる。瑠璃色の瞳は仄暗い光を帯び、形の良い唇からは、ぼくの名がこぼれた。
一歩踏みだした王子の白く長い指が、ぼくの顎をすくう。
頬に王子の黄金色の髪がかかり、鼻先が触れそうになった時。
ぼくは、すっと身を引いた。
パシャッ。
「⋯⋯これで、ご一緒ですね」
「⋯⋯」
王子の呆然とした顔に、笑顔で応える。
泉から片手ですくって投げた水は、王子の胸に見事に当たった。
「王子も、大変色っぽいお姿です」
シェンバー王子の髪と頬には雫が零れ、張り付いたシャツは見事な筋肉を浮き彫りにする。その姿は、ぼくの何倍も色気があった。水も滴る⋯⋯、という奴だろう。
「⋯⋯くっ⋯⋯はっは。あっはっは」
王子の口からは笑い声が漏れた。
てっきり、怒られるかと思ったのに。
「あー、ここにいらしたんですね、お二人とも!」
小道をセツともう一人、少年が走ってくる。シェンバー王子の侍従だ。
ぼくたちを見て、セツが呆れたように言った。
「⋯⋯何をやってらっしゃるんです? 水遊びでもなさってたんですか? こんな季節に」
「いや、温室に行って、それで⋯⋯」
「つい童心に返ってしまった。イルマ殿下と過ごす時間が楽しくてな」
シェンバー王子は笑い続けている。
セツが、ぼくに向かって何か言いたげな顔をしている。
「お茶の支度が出来ております。お風邪を召される前に、お二人ともどうぞお召し替えを!」
王宮に戻る道すがら、王子はぼくに囁きかけた。
「⋯⋯追いかけてきた甲斐があったというものだ」
「はあ?」
「退屈しないですみそうです」
⋯⋯退屈?
顔を上げた王子の瞳を見ることは出来ず、ぼくの胸には不可解な気持ちだけが残った。
その日をきっかけに、シェンバー王子は、せっせとぼくの元にやってくるようになった。
フィスタに来たばかりの頃は右も左もわからなかった王子だが、いつの間にか、この国に馴染んでいる。
「⋯⋯どうして、ぼくの行く先に必ずいらっしゃるんです?」
「イルマ殿下は、大層規則正しくお暮らしでいらっしゃる。私も見習おうと思いまして」
今朝も、ぼくは朝一番で女神に祈りを捧げに来ていた。
王宮の一番上にある『祈りの間』には入れないが、王宮には誰でも自由に祈りを捧げることができる『女神の間』がある。
ぼくが『女神の間』にやってくると、必ずシェンバー王子の姿があった。スターディアもフィスタも女神への信仰は厚い。シェンバー王子が祈りを捧げるのは何もおかしくないのだ。そう、何も。
しかし、祈りを捧げた後は、食事を共にしようと誘われる。最初は理由をつけて断っていたものの、何回も無下に断ることも出来ず⋯⋯。
「結局、毎日ご一緒に朝食をお召し上がりですよね。お二人は仲がいいって評判ですよ、イルマ様」
自室でお茶を淹れながら、セツが言う。
「そんなわけない!!」
「殿下の行動、先方に筒抜けですもんね⋯⋯」
乳母は言った。
早寝早起き。規則正しい生活こそ、日々の要だと。
健康な体には健康な精神が宿るのですよ、イルマ様。
規則正しさが、まさか仇になるなんて。
⋯⋯おかげで頭が痛いよ、ルチア。
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