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番外編 拍手お礼7

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 笠野かさのの主な仕事は、いわゆる〈おさんどん〉だ。元板前見習いという、あってもなくてもいいような肩書きがなぜか長嶺組内では重宝がられ、三十歳半ばに差し掛かった今、長嶺組長宅の台所を取り仕切るまでとなった。
 組に入ったばかりの頃は、もっとヤクザらしい仕事をしたいと思ったものだが――。
 味噌汁をよそいながら、笠野はなんの感慨も覚えずにそんなことを考える。組の中での自分の在り方に一度納得してしまうと、案外、こんなものだ。
 部屋を借りてやると言われながら、便利だからという理由で本宅に住み込み、毎日決まった時間に、他の組員たちとともに朝・晩の食事を作る。長嶺組長の本宅には、護衛も兼ねた組員や、雑事担当の組員が何人も住み込んでいるため、毎回作る量は大量だ。
 ただし、どんなに忙しくても、組長と跡継ぎの食事作りに手は抜かない。笠野なりに勉強して、栄養も考えている。なんといっても、組の現在と将来を支える大事な体を、食事の面から支えているのだ。
 そうやって何年も長嶺組長宅のキッチンに立ち、ダイニングで食事をする組員たちの姿を見つめてきた笠野だが、最近、その光景に変化が起こった。
 味噌汁が入った椀を手に振り返り、新鮮とも違和感とも言える感覚を、たっぷり胸の内で味わう。
 普段は組員たちが集うダイニングのテーブルに、今は一人だけがついている。他の組員たちはすでに朝食を食べ終えており、その時間を見計らってやってきたのだろう。ジーンズに長袖のTシャツというラフな格好をした人物は、ここがヤクザの組長の本宅ということを一瞬忘れさせるほど、自然な佇まいでイスに腰掛けている。
 寛いでいる、という表現はまた違う。この場での自分の立場をわきまえて、意識して溶け込んでいるという印象を受ける。
 医者という肩書きから容易に推測できるが、やはり頭がいいのだ。佐伯和彦という人間は。
「――先生、今日はもうマンションに戻られるんですか?」
 和彦の前に朝食を並べながら笠野が話しかけると、うんざりした顔で頷かれる。
「ここにいると、父子に振り回されるから、落ち着かないんだ」
「先生が一緒だと、楽しいんでしょう。わたしらみたいな強面の人間を連れ歩いたところで、おもしろみはないでしょうし」
「……おもしろいとか、おもしろくないとか、そういう問題じゃないと思うんだが……」
 そうぼやいた和彦が、並んだ食事を目にして、ふっと表情を和らげる。
「ここの朝ご飯は、いいな。ホテルのレストランで朝食セットを頼んだみたいに、バランスがいいし、美味しい」
「嬉しいですね、そう言ってもらえると。組の連中は、どんなメシが出ようが、感想なんて言ってくれませんからね。作り甲斐がない」
 澄ました顔で答えはしたものの、実のところ笠野は面映くてたまらない。食が細そうに見えて和彦は、出した食事をきれいにたいらげてくれる。これまでの生活は外食が主で、すっかり家庭料理から遠ざかっていたと、いつだったか話していたが、実家で食事はしないのだろうかと、余計なお世話だが笠野は考えたものだ。
 そんな話を聞かされたからではないが、和彦の食べ物の好みをすっかり把握してしまった。自分が作ったものを喜んで食べてくれるのだから、なるべくなら食事で不快な思いはさせたくないという、元板前見習いとしてのささやかなプライドゆえだ。
 和彦がまっさきに味噌汁に口をつけたところまで確認してから、笠野はキッチンに戻って湯を沸かし始める。食後のコーヒーを淹れる準備をしながら、ちらちらとダイニングの――和彦の様子をうかがう。
 突然、組長が連れてきた〈男〉だったが、いつの間にか〈オンナ〉になっていた。よりによってヤクザの組長に目をつけられるなんて、ツイていない人間もいるものだと、和彦に対して同情的だった頃が懐かしい。
 和彦は、外見からはうかがい知れないほどしたたかで、タフだ。下手なヤクザより、よほど腹が据わっていた。
 笠野の視線の先で、和彦は塩鮭の身をほぐしている。
 この場所に立ち、何人もの組員を見ているからこそ、食べ方からわかることがある。例えば、和彦は育ちがいいということだ。箸の使い方一つ見ても、よほどしっかりと作法を教え込まれたのだろう。
 そういうことを教えてくれるまともな家庭で育って、医者にまでなっていながら、ヤクザに囲まれても順応できる精神の強靭さはどこからくるのだろうかと、笠野は不思議でたまらない。
 卵焼きを一口食べた和彦の顔が、綻ぶ。今日は気分を変えて、卵焼きを少し甘めにしてみたのだが、思いがけず好評だったようだ。
 笠野はさりげなくキッチンの奥に引っ込み、買うものなどを書き留めておくメモ帳を開く。和彦がこの家に出入りするようになってから、メモ帳には、和彦に関する内容が多くなった。好物や苦手な食べ物だけでなく、現在は、味つけの細かな好みを調べている最中だ。
 自分でも、どうしてここまで凝るのかと首を傾げたりもする笠野だが、この家の中で和彦の存在は特別だからとしか言いようがない。なんといっても、笠野の作ったものの味を理解してくれる、数少ない人間だ。
 卵焼きの砂糖の分量を書き込んでいると、突然、和彦とは別の声が聞こえてきた。
「――美味そうに食ってるな、先生」
 長嶺組の組員なら当然の反応だが、太く艶のあるバリトンが耳に入った途端、条件反射として背筋が伸びる。ビリッと緊張感が体を駆け抜けた。
「ここのメシは美味いだろ? 本宅での住み込み期間を終えた人間の中には、笠野のメシ食いたさに、用がなくても顔を出す奴がいるからな。先生もそのうち、俺恋しさじゃなく、笠野のメシ目的で、ここに居つくようになるかもな」
「……誰が誰を恋しがるんだ。食欲が失せるようなことを言わないでくれ」
 先生は強い――。
 長嶺組の組員や、長嶺組の看板でメシを食っている人間は大勢いるが、長嶺組長にここまで遠慮なく言えるのは、家族以外では和彦しかいないだろう。
 聞いているほうがヒヤヒヤするが、と苦笑を洩らした笠野は、キッチンからひょっこりと顔を出す。どうやら、間が悪かったらしい。ダイニングの光景を目にして、笠野は内心で激しくうろたえる。
 不機嫌そうに明太子に箸をつける和彦の傍らに組長が立ち、大きな手が、白い喉元を撫でていた。たったそれだけの行為ともいえるが、ひどく卑猥に思えて、正直笠野は、目のやり場に困る。
「人が食事しているときに、ベタベタ触るな」
「メシを食っているときの先生は、簡単に逃げないからな。触るなら、今だ」
「別に……、普段だって、あんたから逃げないだろ」
「そうだったかな」
 そこはかとなくセクシャルな会話を交わしながら、和彦は意地になったように明太子とご飯を口に運び、組長は楽しそうに目を細めて、そんな和彦の髪に指を絡めている。
 長嶺組の組員たちにとって長嶺賢吾という組長は、尊敬と同時に畏怖の念を抱かせる存在だ。前組長と並ぶ豪腕・切れ者ぶりで、長嶺組を磐石な組織としてまとめ上げている。面倒見はいいが、反面、目的のためならどんな苛烈な手段だろうが厭わない非情さがあり、組の頂点に立つ人物として、申し分ないといえる。
 その組長が、本宅への出入りを許した初めての〈オンナ〉が和彦だ。当初は組員たちも困惑していたのだが、人目もはばからず、和彦をオンナとして扱う様に、組長に心酔している者たちは自然と理解したのだ。
 和彦を決して軽く扱ってはいけないと。
 組長のオンナを軽んじるということは、組長の顔に泥を塗るということだ。例え、オンナの性別が男であっても、組長が必要としているという現実のほうが、組員にとっては重要だ。事実、ビジネスパートナーとしての和彦の存在感は、長嶺組の中で増している。
 単なるオンナではない――と頭ではわかってはいても、やはり笠野は、目の前の光景に動揺せずにはいられない。
 皿にのっている卵焼きを、組長が一切れ摘み上げようとする。すると和彦が、組長の手の甲を抓り上げた。本当に、仲がいい。
「食べたいなら、笠野さんに作ってもらえっ」
「……そう、ムキになることはないだろ、先生」
「食事中にちょっかいを出されると、イライラするんだ」
「意外に食い意地が張って――」
 和彦がジロリと組長を睨みつける。なかなか鋭い目つきだが、相手が悪い。組長は低く声を洩らして笑うと、イスを引いて腰掛ける。
 和彦本人の感想はともかく、仲睦まじい二人の様子を横目で眺めつつ、笠野は組長の分のコーヒーも準備し始めた。
 食事を終えた和彦は、冷たいお茶だけを飲んで、逃げるように席を立ってしまう。このとき組長が、さりげなく和彦の指を握った。和彦が握り返したかどうかを確認するのは野暮だと感じ、笠野はさりげなく足元に視線を落とし、たっぷり十秒待って顔を上げたときには、和彦がダイニングを出るところだった。
「――最近少し、夏バテ気味みたいだ」
 笠野がテーブルの上の食器を片付けていると、コーヒーを一口啜った組長が、ふいにぽつりと洩らす。それが自分に向けられた言葉だと、数瞬の間を置いて理解した笠野は、そっと目を細めた。
「先生ですか?」
「クリニックの開業準備で、暑い中、忙しく動き回ってるからな。……食欲もあまりないようだが、ここに来たときだけはしっかりメシを食う」
「はあ……」
「俺が監視しているというのもあるだろうが、何より、お前のメシが気に入ってるからだろう」
 男としての色気をたっぷり含んでいるが、それ以上に凄みを帯びた流し目を寄越され、笠野は無意識に背筋を伸ばす。
「大変だろうが、暑い間だけでも、精がつくものを作って先生のところに運んでやってくれ。外食ばかりだと、栄養が心配だ。……医者相手に、こういう心配は杞憂なのかもしれんがな」
 最後の言葉を洩らしたときだけ、組長は柔らかな苦笑を浮かべる。自分は今、かなり貴重な瞬間に立ち会っているのだと、笠野は思った。組長が、跡継ぎのこと以外でこんな表情を浮かべるのは初めて見た。
「医者の不養生なんて言葉もあるぐらいです。杞憂なんてことはありませんよ。――わかりました。食が進みそうなものを作って、さっそく夕方、先生のマンションに持っていきます。ちょうど、買い出しにも出かけないといけませんから」
「ああ、頼む。……俺の可愛いオンナだ。大事にしてやってくれ」
 ここで驚いた表情を見せるのは、命知らずな行為だろう。笠野はぐっと奥歯を噛み締めて、必死に無表情を保つ。
 しかし組長のほうは、笠野の反応などお見通しらしい。心なしか口元が緩んだように見えた。


 イスに腰掛けた笠野は、炊きたてのご飯にすし酢をかけて混ぜ合わせる。ダイニングにはご飯と酢の独特の甘い香りが満ち、この香りだけで、暑さで失せがちな食欲も復活しそうだ。
 組長に頼まれたから張りきるというのも現金な話だが、笠野は、いつもの食事作りの作業を楽しんでいた。
 手早くしゃもじを動かしながら考えるのは、暑い間の、和彦のための献立だ。
 たっぷりの湯気が立つすし飯を、うちわで扇いで荒熱を取っていると、深みのあるハスキーな声をかけられた。
「――いい匂いだな」
 タオルで額の汗を拭って、笠野は笑う。
「今晩は、うなぎのちらし寿司だ。食べて帰るか?」
「そうしたいところだが、夕方まではいられない」
「だったら、折に詰めてやるから、持っていけ。お前が用を済ませて帰る頃には、出来上がってる」
「住み込みの連中の分が少なくなったら、俺が恨まれるのか」
「出世頭の若頭補佐に文句言う奴なんて、いねーだろ。――三田村」
 顔を上げた笠野が笑いかけると、無表情がトレードマークの同期――という表現も、ヤクザの世界では妙だが、笠野と同時期に組に入った三田村が、ふっと目元を和らげた。
 もっとも、残念ながら、精悍とも強面とも言える顔の印象は、それだけでは変わらない。
 キッチンが活躍の場となっている笠野とは違い、三田村はいかにもヤクザらしいヤクザだ。上に命じられれば、どんな汚れ仕事でも黙々とこなし、怯む姿を見せない。だからといって人間味がないわけではなく、愛想はないが面倒見がいいためか、若い者から慕われている。
 若頭補佐という肩書きを得てすぐに、組長直属で仕事をこなすようになったが、組の人間は誰も、この人事に不満を洩らさなかった。
 だからこそ三田村の〈ある行動〉に、笠野を始め、多くの組員は驚いたのだ。
 まさか、あの三田村が、と。
 笠野は少し緊張しながら、しかし自然な口調で告げた。
「……実は先生のために作ったんだ。組長に頼まれてな。どうやら先生が夏バテ気味みたいだから、精がつくものを食べさせてやりたいそうだ」
「ああ、そうだな。俺も、先生が少し痩せたことが気になってたんだ」
 淡々と返ってきた三田村の言葉に、つい深読みをしてしまった笠野の反応を、きっと誰も責めはしないだろう。
 なんといっても三田村は――。
 手を止めた笠野は、ふっと息を吐き出して立ち上がる。
「組長はまだ、来客と打ち合わせ中だ。とりあえず座れよ。飲み物を出してやる」
 ああ、と応じた三田村がイスを引いて腰掛ける。笠野はすぐにキッチンに入ると、グラスに氷を放り込む。アイスコーヒーを注ぎながら、三田村の姿を眺めていた。
 すっかり貫禄がつき、背筋を伸ばしてイスに腰掛けた姿すら、近寄りがたい迫力のようなものを感じさせる。有能で忠実で義理堅く、幹部たちが揃って欲しがる人材だ。そんな三田村を誰よりも欲しがり、手元に置いたのが、組長だった。三田村自身、組長によく仕え、その姿はヤクザでありながら、誠実さの塊のように見えたものだ。いや、今でも、それは変わらない。
 だからこそ、やはり笠野はわからないのだ。なぜ三田村は、組長のオンナに――和彦に手を出したのか、と。
 グラスを三田村の前に置き、笠野は再びすし飯をうちわで扇ぐ。重苦しい沈黙が嫌で、すぐに口を開いた。
「最近、仕事はどうだ」
「ああ、なかなか忙しい。大事な調査を任されているんだ。うちの縄張りで妙なものが流行って、その出所をな。……組長が、俺を信頼して任せてくれている仕事だ」
 笠野がちらりと視線を向けると、三田村は困ったように苦笑を浮かべる。
「そんな顔するな。お前が心配しているような確執は、俺と組長の間にはない」
「しかしな――」
「俺は組長の許可を得て、ときどき先生を預からせてもらっているだけだ。自分の立場は心得ているし、今まで以上に、組長には感謝している。それに、先生にも。単なる〈犬〉の俺が恩義に報いるには、ただ守るだけだ。組長と先生と、何よりこの組を」
 笠野はずっと、三田村は何事にも執着しない男だと思っていた。金も女も、組の中での出世にも。堅気の世界では生きにくいから、たまたまヤクザの世界に足を踏み入れ、淡々と生きている男なのだと、勝手にわかった気になっていた。
 三田村の激しさに火をつけたのは、組長の〈オンナ〉だ。誠実さの塊のようなヤクザを、恋する男に変えてしまった。
 心の中でそう呟いた笠野は、思わず声を洩らして笑っていた。三田村が不思議そうに首を傾げる。
「笠野?」
「……いや、今俺、らしくなく、青臭いことを考えちまってな」
「どんなことだ」
「若頭補佐には教えてやらねーよ」
 笠野は一人で笑い続け、三田村も深く尋ねてはこなかった。その礼に、というわけではないが、ようやく笑い収めて笠野は言った。
「三田村、絶対にちらし寿司を持って帰れよ。――お前こそ、しっかり精をつけろ。あれもこれも守ろうと思ったら、それなりの体力が必要だぞ」
「持つべきものは、世話好きの同期だな……」
「気色悪いこと言うな」
 笠野が思いきり顔をしかめて見せると、三田村は短く声を洩らして笑った。だがすぐに、トレードマークの無表情となった。
「――俺は、体を盾にして誰かを守ることはできるが、それしかできないとも言える。……先生の食事を気にかけてやってくれ。あの人は、ときどきひどく塞ぎ込んで、何も食わなくなるときがあるんだ。そういうときの俺は、何もできない。ただ見守って、あとは日ごろ、気にかけるぐらいだ……」
 本当に、組長のオンナに惚れてしまっているのだなと、妙に優しい気持ちで笠野は実感する。
「おう、任せとけ。俺はけっこう、あの先生が気に入ってるんだ。なんといっても、うちの組で数少ない、味のわかる人だからな」
 笠野が明るい声で言うと、珍しく三田村は冗談で応じた。
「その数少ない人間の中に、もちろん俺も入っているんだよな」
「……お前はけっこう怪しいぞ」
 久しぶりに同期らしい会話を交わしながら笠野は、ちらし寿司以外に、どんな料理を和彦に差し入れようかと考えていた。
 尊敬する組長と、親しい同期から頼まれたのだ。和彦の食事管理は、笠野にとって久しぶりの大仕事となりそうだった。

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