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1章

漂流者①

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男をひっぱりあげたらいかだが大きくなった。
最初が2畳で、今が4畳ほどだろうか。



意味がわからないが、とにかくそういうことだ。
代わりに男が掴まっていた板切れが消えている。
いかだに板切れがくっついて、大きくなったというのだろうか。
いやそれにしては大きくなりすぎだが…。
謎の現象が起き混乱するが、それよりも男の様子が気になる。

顔は青白い。
体はやはり冷え切っている。
腹も胸も動いていない。

折角この海で自分以外の人間を見つけたというのに、死人なのか?
いや、一か八かだ。
やれることはやるべきだ。

そうと決まったら一秒でも惜しい。
男の服をめくり上げて、心臓マッサージをする。
幸いいかだが大きくなったせいか、前よりも多少安定感がある。
「いち、に、さん、し、ご、ろく、なな、はち、きゅ、じゅ」
繰り返す。繰り返し胸を押す。
人工呼吸は少しためらうが、仕方ない。やるしかない。
「ふーぅっ、ふーうっ」
また胸を押す。息を吹き込む。
どれくらい繰り返したか…しかし男の呼吸が戻る様子はない。
諦めるべきなのだろうか。
初めて見つけた人間だ。
諦めたくはないが、これだけ心臓マッサージを施しても駄目だということは、もう無理なのだろう。
そうであれば、冷たいかもしれないが、遺体と一緒にいかだには乗っていられない。
余裕もアテもない後悔だ。
海に、戻ってもらおう。



「…喉が渇いた」
バックパックから水を取り出す。
その時、パサッと何かが男の胸に落ちた。
あの綺麗な鱗を入れた袋だ。
そうだ、海に男を戻すならせめて、この綺麗な鱗と一緒に。
少し考え、男の胸に置いた。
「もっと早く助けてやれなくて、ごめん」
男がどんな状況で1人で海を漂うことになったのかはわからない。
だがもっと早く見つけられていたら、助けられていたら、助けられたかもしれない。
どうしようもないことだったが、苦い思いがこみ上げる。
ふと、男の首元に光るものを見つけた。
さっきは心臓マッサージに必死で気づかなかったがこれは、
「コンパスだ…」
ころりとした、手に収まるサイズのコンパスが付いたペンダントだった。
もしかして、この男が着けているコンパスなら。
自分のではないこのコンパスなら。
…もしかしたら、まともに動くのではないか。
コンパスに目を落とす。
果たしてコンパスの針はくるくる回ることもなく、水平に止まっていた。
「っ…」
胸が波打つ。
もう一度コンパスを見る。
針は水平に止まっている。
判ったのはそれだけだ。このコンパスの見方がわからない。
針先には何らかの色石が埋め込まれている。
北とか南とかを示す文字がない。何らかの見たこともない模様が描かれている。
もしかしたらコンパスではないのかもしれない。
「くそっ…」
思わず悪態をつく。
…そもそも自分のものではない。
遺体とはいえ勝手に男のものをあてにしようとしたことが間違っていた。
結局何も状況は変わらない。
コンパスを戻そうと男の首元に触れた。


ほのかに温かかった。


「えっ」
思わず飛びのいてしまったが、慌てて胸に耳を押し付けた。
するとわずかにとくとくという音が聞こえてきた。
青白かった顔も、わずかに色味が戻っている。
呼吸も、ゆるやかではあるが、している。
何故かはわからない、が、良いことには違いない。


希望が見えた気がした。


まだ太陽は高く上がっているが、いずれ夜になり気温は下がるだろう。
どれくらい気温が下がるかはわからないが、これ以上男の体温を下げるわけにはいかない。
意識のない体を動かすのはやはり重たかったが、なんとか濡れた服を上下脱がせ、バックパックから薄手のブランケットを、さらにエマージェンシーシートも取り出して体に巻き付けた。
本当は着替えを着せる方がいいのだろうが、この男は自分よりも大分身長も高く、なおかつ筋肉が付いた体でそれは諦めた。
これ以上はこんないかだの上ではしようがない。
心臓が動き始めたことに感謝して、あとは男の生命力にかけるだけだ。


小腹が空いた。
ごそごそとバックパックを探り、折り畳み式の調理ストーブを取り出した。
固形燃料をセットし、火をつける。
水は惜しいが即席スープを作ることにした。
刻んだ玉ねぎがおいしい少し塩味が効いたオニオンスープだ。
これは気に入っていて、登山の時はいつも持っていく。
くつくつと水が沸騰してくる音が聞こえ、塊になったスープの素を入れる。
ほどなくいいにおいがしてきた。
このにおいに釣られて、男も起きないだろうか。



ふと、男の胸からどけた鱗を見る。


「ん…?」


うっすらと翠色の、透明感のある鱗だったはずだが。
今やその透明感は失われ、黄ばんだプラスチックのように変化していた。


海のものだから、日光に当てるとよくなかったのだろうか。
そんなに長時間日光に晒してはないが、そういう性質のものだったのだろう。
残念だがしかたがない。
気を取り直して、スープに意識を戻す。
固形燃料にも限りがあるので、いつまでも燃やしていられない。
すぐに火を消して、鍋を調理ストーブから下ろした。
「いただきます」
ふぅふぅと冷ましながらスープを啜る。猫舌なのだ。
玉ねぎの優しい甘さと程よい塩加減が染み渡る。
やはり思った以上に体も精神もつかれているのかもしれない。
その時、ぐぅぅという音が聞こえた。
自分の腹ではない。
とするとこれは側で寝ている男の腹の音だろう。
「よかった…」
においを感知できるほど回復したのか。
これは良い兆候だ。
しかも何やらもごもごと口が動いている。
外部から刺激すれば覚醒を促せるかもしれない。
男の鼻先にスープを入れた鍋を近づける。
すんすんと鼻が反応した。
「おい、起きれるか?大丈夫か?」
そういえば言葉は通じるのだろうか。
男の顔は随分…古い言い方ではあるが…バタ臭い。
英語でないとダメだろうか。
「Hey、Get up!」
ぴくぴくと瞼が動いている。
もう少しだ。
「うっ…」
男は呻いた。
続いて、小さな声で何やらもごもごと言っている。



「は…はらへった…」



日本語だった。

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