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第三章ジュネーブ

第三章第八節(技あり!)

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                 八


 芳澤が議論の方向を変えて落としどころをほのめかすと、議場の目はテニスのラリーのように彼へと集まった。芳澤はその変調を見逃さなかった。今度は攻めに転じる番である。
「最近の情報によれば、中華民国側から両国の政府間交渉により問題の解決を図りたいとの申し出があったとのことである」
 すると施肇基代表は慌てて芳澤の発言を遮ろうとした。

「そのような話は政府から聞いていない」
 芳澤の言う“申し出”とは、財政部長宋子文そうしぶんの振る舞いを指した。事変直後の九月十九日、上海で重光葵しげみつまもる公使と会談した宋子文は、彼の方から「日華共同外交調査委員会」を設置してはどうかと持ち掛けてきたのである。それは幣原外相からの公電に記されていた、唯一役に立つ情報であった。芳澤はそれを有効に使った。
「貴国政府のしかるべき要人からの要請である」
「要人とは誰か。そのような話は認められない」
 今度は施肇基が守りに入る番となった。しかし芳澤の意図は施肇基をやり込めることにあった訳ではない。その先である。

「このような状況の下で第三国からの仲介は時期尚早というべきだ。すでに白熱している日本の国内輿論よろんをさらに刺激したのでは、好ましくない結果をまねき、事態の解決を一層困難に導く恐れがある」
 芳澤の発言を受けて、議場に「それもそうだ」との空気が広がった。
「この問題の処理は、現地の事情に則して両国政府間の直接交渉に委ねるのが望ましい」
 聯盟の関与を極力遠ざける。本省へ打診し、無しのつぶてになったままの打開策を、芳澤は独断で実行した。
「何ぶん、本代表は本国政府からの回訓を待っている状態にある。これが届き次第理事会へ報告するので、次回理事会まで討議は持ち越してもらいたい」
 “技あり”といったところか--。

「両国の主張にはなはだしいへだたりがあり、この場でどう判断するかを決めるのは困難である」
 両者の応酬がひと段落つくのを待って、英国のセシル卿がそう宣告した。聯盟創設の功労者として、彼の発言は特別な響きをもって迎えられた。先ずは聯盟らしく喧嘩両成敗けんかりょうせいばいとなった。
「この場合、過去の先例にならって議長から両国に対し、事態をこれ以上悪化させないよう努めるとともに、占領地から速やかに撤退するよう勧告することになっている。この点について、例外を認めない」
 聯盟の慣行に従って、日本政府は何のアクションも起こさないまま聯盟から勧告を受けることになった。

 さて、芳澤が持ち出した宋子文の話には後日談がある。重光は宋からの打診を引き取り東京の本省と調整をつけた。本省側も「悪い話ではない」と、乗り気になった。ところが二十二日、実務的な話を詰めようと再び宋子文を訪ねると、宋はあっさり「あの話はなかったことにしてくれ」と言い出した。どうも宋子文は本気だったが、蒋介石しょうかいせきの反対に遭ったらしい。そこで話に尾ひれがついて、「蒋介石もいったんはその気になったが、イギリスのマイルズ・ランプソン南京公使が介入してきて民国側をたぶらかした」との噂が立った。
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