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第三章ジュネーブ
第三章第十節(五人委員会)
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十
夜になって英・仏・独・伊の聯盟代表とレルー議長が集まり、満洲事変に関する意見を交換した。これを「五人委員会」という。彼らはそこで何らかの試案を立てたようで、その足でオテル・メトロポールに芳澤を訪ねてきた。
「これまで貴国は聯盟の発展と世界の平和に対する重要な役割を担ってこられた。先ずはそのことに感謝を申し述べたい」
レルー議長は慈愛を込めた目で芳澤を見据え、本心とも社交辞令とも区別のつかない謝辞を述べた。普段から何かと好意をもって接してくれるスペインの外相だが、こうもあからさまに慇懃な態度を取ってくる以上は何か下心があるに違いない。やや身構えて次の言葉を待った。
「不幸にして今回の事件で、貴国が紛争の当事者となったのは大変残念なことです。今後理事会で議論を進める前に、日本側に何か良い解決案があれば参考までに聞き置こうと、こうしてお訪ねした次第です」
それはありがたい配慮だとも言えるが、しかし午前中に話し合った問題の解決案を「今日の今日に出せ」と言うのはあまりに性急過ぎる。まして東京はまだ夜中の三時ではないか。彼らが字義どおりに日本側の意見を聞きに来たのでないことは明らかだった。
「今朝ほどもお話した通り、日本側の対応は現在本国へ問い合わせているところです。ですが、もし小官の個人的な考えとしてお聴きいただけるのならば、今回の問題については理事会の議論とせずに、あくまで当事国どうしの直接交渉で解決するのが最善かと存じます」
「だがミスターヨシザワ、本件はすでに規約十一条によって理事会の議案となった。それをお忘れではないでしょうな」
すぐさまセシル卿がクギを差してきた。やはり彼らが腹に一物を持ってきていることが、これではっきりした。レルー議長はセシル卿に被せるかたちで一層柔和な口ぶりをして見せ、諭すようにこう言った。
「なるほど、午前中もそのようにおっしゃいましたね。しかしご承知のように、それでは施肇基代表が納得しません。常任理事国の日本が聯盟にとって不可欠な存在であるのと同ように、中華民国もまた、大切な聯盟加盟国です。この間に差異はない。このままでは議論は延々と平行線を辿ることになるでしょう。『何か良い案』というのは、そこを踏まえての相談となります」
選択肢が絞られれば、結果としてどこかへ誘導される。ここは注意が必要だ。下手なことは口走らない方がよかろう。芳澤はいったん間合いをとった。
「正直に申し上げて、ヨーロッパの方々は極東の事情に通じておられない。事情に不案内な者どうしが話し合っても、良い結論に至れるとは思えないのです」
芳澤は相手の話をけん制するつもりだったが、セシル卿はそれを待っていたかのごとく差し込んできた。
「確かに現地の状況を正確に知る必要がある。それならば理事会が任命する『調査委員』を現地へ派遣してはどうか」
これだったのか――。足元をすくわれないようにと退避した先で、相手の術中にはまってしまった。これはちょっとまずいことになった。
「まぁ一応……、本国に打診はしてみますが……」
見るからに気のない返事が彼の動揺をなおさら浮き立たせた。
「極東の実情を知らない理事会の代表たちに、中華民国の不統一で混乱した状況が知れ渡れば、日本にとってむしろ有利になるのでは?」
他意のない好意といった面持ちで、イタリアのグランジ外相が追い打ちをかけてきた。
「それはそうなのですが……、しかし日本の国民感情に『第三国の干渉を受けた』という印象を与えてしまっては、まとまる話もまとまらなくなります。小官が気に掛けているのは、この点なのです」
聯盟の介入を招けば国内の輿論が反発して激昂するのは火を見るより明らかである。「古傷がうずく」--とでも言うのだろうか。法理や条約論では語れない“感情”の領域を、彼らヨーロッパ人とどう分かち合えるだろうか……。芳澤は出口のない迷路へ入り込んでしまったような気がした。
夜になって英・仏・独・伊の聯盟代表とレルー議長が集まり、満洲事変に関する意見を交換した。これを「五人委員会」という。彼らはそこで何らかの試案を立てたようで、その足でオテル・メトロポールに芳澤を訪ねてきた。
「これまで貴国は聯盟の発展と世界の平和に対する重要な役割を担ってこられた。先ずはそのことに感謝を申し述べたい」
レルー議長は慈愛を込めた目で芳澤を見据え、本心とも社交辞令とも区別のつかない謝辞を述べた。普段から何かと好意をもって接してくれるスペインの外相だが、こうもあからさまに慇懃な態度を取ってくる以上は何か下心があるに違いない。やや身構えて次の言葉を待った。
「不幸にして今回の事件で、貴国が紛争の当事者となったのは大変残念なことです。今後理事会で議論を進める前に、日本側に何か良い解決案があれば参考までに聞き置こうと、こうしてお訪ねした次第です」
それはありがたい配慮だとも言えるが、しかし午前中に話し合った問題の解決案を「今日の今日に出せ」と言うのはあまりに性急過ぎる。まして東京はまだ夜中の三時ではないか。彼らが字義どおりに日本側の意見を聞きに来たのでないことは明らかだった。
「今朝ほどもお話した通り、日本側の対応は現在本国へ問い合わせているところです。ですが、もし小官の個人的な考えとしてお聴きいただけるのならば、今回の問題については理事会の議論とせずに、あくまで当事国どうしの直接交渉で解決するのが最善かと存じます」
「だがミスターヨシザワ、本件はすでに規約十一条によって理事会の議案となった。それをお忘れではないでしょうな」
すぐさまセシル卿がクギを差してきた。やはり彼らが腹に一物を持ってきていることが、これではっきりした。レルー議長はセシル卿に被せるかたちで一層柔和な口ぶりをして見せ、諭すようにこう言った。
「なるほど、午前中もそのようにおっしゃいましたね。しかしご承知のように、それでは施肇基代表が納得しません。常任理事国の日本が聯盟にとって不可欠な存在であるのと同ように、中華民国もまた、大切な聯盟加盟国です。この間に差異はない。このままでは議論は延々と平行線を辿ることになるでしょう。『何か良い案』というのは、そこを踏まえての相談となります」
選択肢が絞られれば、結果としてどこかへ誘導される。ここは注意が必要だ。下手なことは口走らない方がよかろう。芳澤はいったん間合いをとった。
「正直に申し上げて、ヨーロッパの方々は極東の事情に通じておられない。事情に不案内な者どうしが話し合っても、良い結論に至れるとは思えないのです」
芳澤は相手の話をけん制するつもりだったが、セシル卿はそれを待っていたかのごとく差し込んできた。
「確かに現地の状況を正確に知る必要がある。それならば理事会が任命する『調査委員』を現地へ派遣してはどうか」
これだったのか――。足元をすくわれないようにと退避した先で、相手の術中にはまってしまった。これはちょっとまずいことになった。
「まぁ一応……、本国に打診はしてみますが……」
見るからに気のない返事が彼の動揺をなおさら浮き立たせた。
「極東の実情を知らない理事会の代表たちに、中華民国の不統一で混乱した状況が知れ渡れば、日本にとってむしろ有利になるのでは?」
他意のない好意といった面持ちで、イタリアのグランジ外相が追い打ちをかけてきた。
「それはそうなのですが……、しかし日本の国民感情に『第三国の干渉を受けた』という印象を与えてしまっては、まとまる話もまとまらなくなります。小官が気に掛けているのは、この点なのです」
聯盟の介入を招けば国内の輿論が反発して激昂するのは火を見るより明らかである。「古傷がうずく」--とでも言うのだろうか。法理や条約論では語れない“感情”の領域を、彼らヨーロッパ人とどう分かち合えるだろうか……。芳澤は出口のない迷路へ入り込んでしまったような気がした。
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